入賞【中学生の部】
あいさつを好きになる
北海道 東陵中学校 二年 和田悠里
みなさんは、あいさつをするのが好きですか。あいさつをされるのが好きですか。
私は声が大きいのがとりえで、大声を出すのが、なぜか楽しいと思っています。そのせいか、小学校のころから、なんとなくあいさつが好きでした。
でも、今は本当に好き、と言えます。あいさつは、良いことばかりだと知ったからです。
良いことの一つは、あいさつをすると気持ちがいいことです。私が、学校のろう下で会った後輩に、「こんにちは。」と言ったら、向こうも「こんにちは。」と、実にうれしそうな顔で返してくれました。その顔を見たら、あいさつってこんなに気持ちがいいのか、と思いました。
また、もう一つとして、あいさつをされるのも気持ちがいいこともあげられます。
私の学校では毎朝、「あいさつ運動」が行われていて、その名のとおり、生徒会や生活委員会の人たちが、玄関に並んであいさつをしてくれます。この「おはようございます」が、たまらなく気持ちがいいのです。本当にいつもお疲れ様です!!
そして、もう一つ。それは、人とつながることができること。嘘だと思う人もいるかもしれませんが、本当です。必ずとは言い切れませんが、可能性は十分にあります。
私が中一のころ、「あいさつ運動」をしていた生活委員会の女子の先輩がいました。ただ学校の先輩というだけで、何も知りませんでしたが、その先輩は特に大きな声であいさつをしていて、私からすると目立っていました。
そして、ある日、私はその先輩と同じ先生に用事があり、目が合い、「あっ、朝のいつもの子。こんにちは。」と言ってくれたのです!もうどんなにうれしかったことか。私がいつも大きな声であいさつをしていくのを、覚えていてくれたのでしょうか。
こうして、それからはずっと、学校のろう下で会ったときも、たまたま同じだった塾で会ったときも、あいさつを交わしています。
その先輩は、本当に明るくて元気な先輩で、私の尊敬するあこがれの人です。本当にこの先輩と出会えて良かった、と思います。
こんな風に、良いことばかりの「あいさつ」。恥ずかしかったり、面倒だったりするかもしれませんが、やってみたら好きになると思います。
コミュニケーションの一つである「あいさつ」を、一人一人が好きになるのは、人とのつながりの大切さを知り、社会全体を明るくすることにつながるのではないでしょうか。
被災地から見れた思いやり
岩手県 北陵中学校 二年 浪岡晃岐
三月十一日、東日本大震災があった。沿岸部の被害はとても大きく、多くの人々が死んでしまったり、今でも行方不明の人々がたくさんいる。
内陸部は停電となったが、電気がついてテレビを見たとき、しばらく何がどうなっているのか分からなかった。それからしばらくして、沿岸部の人たちは、体育館や仮設住宅で生活していた。体育館で生活していた人は、たくさんいた。
テレビを見て、その体育館でたくさんの思いやりを見ることができた。
一つ目は、ボランティアの人たちのこと。今回の震災で、多くの人がボランティア活動に行った。がれきを片づけたり、被災者にいろいろあげて元気づけたり、本当にたくさんの人が協力していた。沿岸部がより早く復興できるよう、話しかけて、少しでも勇気づけようとしていた。
自分の学校では、部活によって、沿岸の中学校に行って練習試合をやったりしていた。こういうのは、被災者への思いやりだと思う。これなら、だれでもやろうと思えばできる。
二つ目は、被災者同士でのこと。被災者同士で声をかけ合い、食べ物を分けあったりしているのをテレビで見た。体育館の中、朝起きたり、夜寝るとき、お互いに声をかけていて思ったことがあった。ボランティア等の人たちは町を、被災者同士は互いの心を復興させていってるんだな、と思った。
それぞれできることは、違うと思う。人それぞれで、なおせる物は違う。でも、それは全て一つの思い、他人の力になるという思いやりからくるのだ、と思う。
がれきの片づけもまた人が住めるよう、行方不明者を探している家族の元へ返せるよう、少しでも話してその人に元気が戻るよう、全て人のためにやっていること。どんなに小さい思いやりでも、同じ思いやりがたくさん集まれば、きっととても大きな思いやりになる、と思う。
その大きな思いやりがあれば、きっと復興できると思う。まだ先になるのかもしれないけれど、復興までがんばってほしい。
笑顔の架け橋
山形県 第五中学校 三年 豊野実佳
私がした親切は、つい最近のことです。友達と買い物に行った帰りに公園に寄ると、一人のおばあちゃんが、花壇の雑草を一生懸命抜いていました。
たった一人で雑草を抜いているおばあちゃんを見た私と友達は、そのおばあちゃんを手伝うことにしました。
「おばあちゃん、私たち、手伝いましょうか。」
私がそう言うと、そのおばあちゃんは、
「い、いや……、大丈夫ですよ。」
と、おどおどしながら言いました。
「でも、おばあちゃん、一人で大変そうじゃないですか。手伝いますよ。」
そう言うと、おばあちゃんは、
「そんなに言うなら、お願いします。」
と遠慮がちに言いました。
それから私たちは、おばあちゃんに教えてもらいながら、雑草抜きをしました。最初、おばあちゃんはとても控えめでおとなしかったのですが、話しているうちに、うち解けることができました。
「夫が死んでからは、話す人なんていなくてね。すごく淋しかったのよ。こんな老いぼれババアなんかに話しかけてくれて、手伝ってくれて、ほんにありがとうなあ。」
おばあちゃんは、うるんだ瞳を光らせながら、これでもかってくらいのくしゃくしゃの笑顔を私たちに向けました。私には、そのくしゃくしゃの笑顔がとても輝いて見えました。
そんな笑顔を見て、私は嬉しいような、照れくさいような、くすぐったいような、妙な気持ちになりました。でも、その妙な気持ちは、決して嫌なものではありませんでした。「言葉に言い表せない気持ち」を、そのとき初めて感じました。そして、親切の大切さを改めて実感しました。
親切は、友情や信頼、絆を生みだす原点だと思います。私も、親切を通しておばあちゃんと仲良くなれました。
しかし、親切に対して、「恥ずかしい」「面倒臭い」などという否定的な考えを持っている人がたくさんいますが、そういう人も親切をすれば、良さが分かるはずです。「親切をする機会がない」と言う人もいますが、私たちの身の回りには親切が溢れています。
電車で席を譲る、物を貸す、落とした物を拾ってあげるのもそうです。考えてみれば、数えきれいないほどの親切が私たちの身の回りに溢れていることが分かります。いうなれば、私たちは親切と共に生きているのです。親切がなければ、人と関わり合うことなんてできないので、親切がいかに私たちの身近にあり、必要だということを理解して、生活していかなければなりません。
親切は、人と人とを繋ぐ「笑顔の架け橋」だと思います。私は、その架け橋を大切にしながら生きていきたいです。
思いをつなげて
山形県 長井南中学校 三年 四釜佑香
二〇一一年三月十一日午後二時四十六分、東日本大震災が起こりました。この震災によって何万人もの人が亡くなられ、被災にあわれた人たちがたくさんいます。
震災から一週間後、ある一通のメールが母の携帯に送信されてきました。それは、「避難所で生活を送る人たちへ、生活必需品を届けよう」という内容でした。母は、すぐさま私たちに、
「みんなで協力して、家の中で何か提供できる物がないか探してみよう。」
と言いました。私は始め、「母がするからいいだろう」と、手伝おうとはしませんでした。
しかし、毎日テレビで流れる避難所の様子や新聞から伝わる被災者の声に、私は役に立ちたい、という思いで一杯になりました。タオルはもちろん、下着や靴下等、何か使える物がないか、母や兄弟と一緒になって準備しました。いつか使おうと思って残していた物を、今困っている人たちへ届けたい、と強く思いました。
次に、被災地の方々が必要としていた自転車。私の家には兄弟四人に対し、成長に合わせて増え続けた自転車がたくさんありました。しかし、どれも使い回しされたため、タイヤがパンクしていたり、スタンドがなかったり、ベルがサビて鳴らなかったりしました。そのため、処分を待っていたものもありました。
こんなものが本当に使用されるのだろうか、と半信半疑で事務局に連絡しました。すると、
「使えればいいです。パンクしていてもかまわないので、ぜひご提供ください。」
と言われました。
被災者の方には、少しでも良い状態のものを届け生活に役立ててもらいたいという一心で、私は母と協力して、自転車の修理を始めました。空ぶきから始め、サビを落としたり、部品を足しているうちに、気付くと夕暮れでした。
私と母ではどうにもできない部分を、祖父に見てもらい、修理してもらったおかげで、六台提供することができました。パンクしていた自転車は、地元の自転車屋さんが、
「被災地に持っていくなら、協力させてほしい。」
と無償で修理して下さり、本当にうれしかったです。
今回の取り組みを通して、考えたことがあります。それは、「まず行動してみる」ということです。「これは無理だろう」とか、「不必要かもしれない」といった否定的なことを、私たちは先に考えてしまいがちです。その瞬間に感じたこと、思ったことは形にしなければ、誰にも分かりません。
実際に行動してみたら、できたという経験は誰にでもあるはずです。今回のように、同じ考えをもつ人たちが協力すれば、その力は何倍も大きくなります。親切にすることも、されることも、まず自分の心を開き、思いを分かち合うことが大切だと思います。
“ココロ”
宮城県 八乙女中学校 三年 及川尚美
心って何でしょう。思いやり、自尊心、共に分かちあえる“心”。心は重くて、人や動物など、様々な生き物にあります。今回私が体験し、今後活かしていこうと思ったのは、「互いに助け合う」親切です。
今年三月十一日。小さな日本を、地震と津波が襲いました。海は激しい波となり、町や逃げまどう人々を飲み込んでいきました。津波到着まで、あと五分。その間に、自分はどうしたらいいのか。幸い私は、県の中心部に居たため、津波が来ることはありませんでした。
ですが、M9.0の地震ということもあり、ショーケースのガラスは下でくだけ散り、皿も割れ、家には多数のきれつが入りました。大規模半壊で済んだものの、その大きさは一目瞭然でした。三日程家で過ごしましたが、小学校へと避難することになりました。
避難といえども、一度にすべての人が避難できるわけではありません。私たちは、おとなりの人と一緒に避難したのですが、あたえられたスペースはわずかたたみ二じょう程。そんな小さなスペースに、私たちは六人で生活しなくてはなりませんでした。
遅れをとりスペースをとれなかった人は、何百人といるはずなのに。そんな人のことを思うと、胸が痛くて夜も眠れませんでした。
避難生活に慣れ始めたころ、非常食の配布が始まりました。渡されるのは、α米やわかめごはん、クッキーなど。プラスチックの容器に入れられた、少しですがあたたかいご飯でした。筆箱一つ分のごはんを、三日に分けて食べたりと、むなしい生活は続きます。
ある日、母と姉、そしておとなりが自宅へと荷物を取りに行きました。自分一人取り残され、寂しいばかり……、とそこで、クッキーが配布され始めました。「二つのスペースで三十枚入を一つ」「二家族で分けて下さい」。どうしよう、自分は今一人だ。
配布されても五枚ほどしかもらえない、と思っていると、私たちの後ろで生活していた人が、
「すみません。ここ二家族だから、丸々一個下さーい。」
と言ってくれたのです。
「困ったときは互いに助け合わなきゃ。こんなときだし、がんばっていこうね。」
私は、思わず涙ぐんでしまいました。ああ、思いやりとは何てあたたかいのだろう。他人の人情を感じたのは、これが初めてでした。
つらいときも苦しいときも、私をいつも助けてくれるのは、身の回りの人でした。ですが、今回このような体験をして改めて気付いたことは、“心”はいつでも自分を助けてくれるパートナーなのだ、ということです。
自分を愛せなくては、他人も愛せない。これから私は、“心”を自分のものだけにせず、家族や友達、そして、これからはもっと多くの人と心を交わせていこうと思いました。
「困ったときはお互い様」。自分もいつか、そう言えるように。
一歩踏み出す勇気
群馬県 富岡東中学校 三年 高麗由華
私は、ある出来事が起きたあの日から、「一日一善」を心がけている。
そのきっかけとなったあの日。それは、部活動が終わって友達と帰る途中だった。ふと反対側の道を見ると、白杖を持った老人が一歩一歩ゆっくりと歩いていた。見ていると、ふらふらして今にも車と接触しそうだ。
私は、おじいさんが心配で、家に帰るのをやめてずっとおじいさんを見ていた。すると、おじいさんは横断歩道を渡り始めた。白杖一本と耳を頼りに、周りを探りながら横断歩道を渡る姿を見て、不安な気持ちでいっぱいになった。
「大丈夫かなあ」「誰か助けてあげて!」、そんな思いだった。でも、私は見ているだけで、何も出来なかった。私が弱い心と戦う今も、おじいさんは横断歩道を渡りきれていない。
「大丈夫ですか?」そんな簡単な一言を、私は言えないまま。その後、おじいさんの近くまで行ったり、勇気が出なくて横を通りすぎたりの繰り返し。「あー、もう、どうしよう」「助けなきゃ」。でも、やっぱり私は話しかけることが出来なかった。おじいさんが早く横断歩道を渡りきらないせいで、おじいさん待ちの車はどんどん増えて行く一方だった。
そんな光景を目にした私は、助けに行こうと決心し、一歩踏み出した。私の歩くスピードが速くなるにつれ、おじいさんと離れていた距離もだんだん近くなってくる。「あと、もう少し」。そのとき、後ろから走ってきた女の人が、私の横を通り過ぎた。
そして、その女の人は、おじいさんの傍らへかけ寄り、あのおじいさんを助けていた。私は安心するとともに、「やっぱり私が、力になりたかったなあ」という後悔の気持が、心のどこかにあった。
それから家に帰る途中、いつもは短く感じた道のりが、その日はとても長く思えた。それは、助けられなかった後悔と自分への軽蔑で、足取りが重く感じられたからだろう。私があのとき、勇気を出して声をかけていたら……。何度もそう思った。家に帰っても、夕飯が喉を通らず、自分が憎くさえ思えた。
今となっては簡単に言えることだが、その状況に実際にたち、自分の弱い心を知ることが出来た、そんな気もした。
次の日から私は、「一日一善」を目標に決めた。そして、できるだけ実行した。例えば、私の住む町には富岡製糸場があるので、製糸場を見に来たが場所が分からず迷った人に、自分から声をかけたこと。道を聞かれたときに説明で終わらせず、現地まで案内したことが何度もある。
今までの私は、こんなことができなかった。きっとあの日の出来事が、私を変えたのだ、と思う。あの日に味わった後悔を、私は心に刻み込んだ。
もし再び同じ光景を目にしたら、私はすぐに走ることができる。そして、今はまだ心に刻んである「勇気を出して一歩踏み出そう」という言葉だが、いつかは自然な気持ちの表れにしたい。
震災の中で
茨城県 結城南中学校 三年 小堀眞生
三月十一日。人々が今までに体験したことのない大変大きな地震が起こりました。東日本大震災です。
私は地震が起こったとき、学校の自分の教室にいました。床がどんとなって大きく揺れたのを、今でも覚えています。もちろん、恐怖で泣いている人もいました。私は、「大丈夫だよ。」となぐさめてあげました。
それから、揺れが大体おさまって、家に帰ることになりました。私は、いつもかよっている道を通って帰ることに決め、いつも通り交差点を渡ろうとしたとき、なんと停電で信号が止まっていたのです。
これには、あまり感情を出さない私でも、目を丸くしてしまいました。危ないな、と思いながらも、そこを通らないと帰れないので、車の流れが止まるまで待っていたら、道をゆずってくれたドライバーの方がいて、無事に通ることができました。私は、こんなときに親切にしてくれる人がいることに少し感動しました。
家に帰ると、近所の人たちが外に出ていて、みんな心配そうな顔をしていましたが、帰って来た私の顔を見てほっとしたみたいで、うれしかったです。それと、「無事でよかった。」と温かい言葉をかけてもらえたのも、とてもうれしかったです。
それから、家に入ると、中はめちゃくちゃになっていました。壁が崩れている部分があったり、食器が粉々になっていたり、テレビが派手に落ちていたりなど、朝と見違えるほどになっていました。見たときは、言葉を失いました。ショックすぎて、涙も出ませんでした。
でも、いつまでも悲しんでいられないので、家族みんなで片づけらるところは片づけて、やっとの思いで夜をむかえました。するとそこに、近所の人が、温かいおにぎりを持って来てくれました。それは、体だけでなく心まで温かくしてくれました。
そして、次の日。電気は止まったままで、家の中の片づけをしました。テレビは見れないので、情報は、ラジオで得ていました。震災当時は、各地の様子などが主でしたが、時間が経つにつれて、応援メッセージなどが読まれるようになりました。それが、本当に心の支えになっていました。それ以来、私はよくラジオを聴くようになりました。
今は、もちろん元の生活に戻りましたが、まだ完全に元の生活に戻っていない方も、日本にはたくさんいることと思います。私は自分に出来ることをと考えた結果、募金をすることにしました。小さいことですが、いずれは大きな力となることを信じて募金しました。
今回の震災は、私にたくさんの人の温かさを教えてくれました。今まで忘れていた人の親切。これを機に、忘れないようにしようと思います。
この震災で、大きな暴動が起こっていないのは、日本人の力だと思います。これからの未来を生きる私たちにとって、この震災と日本人の親切心は持ち続けて、後世へ伝えていきます。
蛇口の開け方
東京都 東京学芸大学附属国際中等教育学校 二年 鄖 雪晴
私の両親は、共に中国人だ。父の銀行事務の引き継ぎがなければ、四年生のときから日本へ引っ越すことにはならなかった。
実際に日本に来ると、中国との一つ大きな違いが見えてくる。そこでは貧富の差が広く、農民の地位が低いため一番軽蔑されている。国民全体の教養、修養が足りない表れだと思う。日本では富裕層も教養づけられているし、複雑な関係を持っていない為、国民全体が影響され、平等な社会になっている。
ふと私は、小さい頃、中国北京にあるレストランのお手洗いでの経験を思い出した。その日、内陸部の辺鄙な片田舎から、一人の女の人が子供を連れて来ていた。目立つ緋色の上着に、布地が粗いベージュ色のズボンに布靴という恰好から、誰もが近づこうとしなかった。
やっと順番が女の人に回ってきた。普通のように蛇口をひねろうとするが、水が出ない。センサー式自動蛇口だ。女の人は不思議そうに、蛇口をひねったり、ぬいたりして水を出そうと必死になった。
やがて、後ろに並んでいた人たちは、とうとう忍耐しきれなくなり、大声で女の人に対する不満をぶちまけた。女の人は気まずくなり、「対不起。請下一位吧。」(すみません。次どうぞ。)とその場を逃れようとした。
しかし、隣の一人の女の子の行動を目にした女の人は微笑み、「対不起。請譲我再洗一次好嗎。」(もう一度手を洗い直していいですか。)と、列に再び並んだ。
その女の子は、見た目から大学生のように見える。彼女は手を洗い直すふりをして、誰もが助けてあげようとしなかった女の人のために、無口な行動を起こし、プライドを傷つけることなく、女の人を助けた。このことは、今でも私に強い印象を残している。
実際、中国の社会では、道徳心を第一に重視化している人は必ずいる。人権を尊重し、平等な人間関係を好む人は必ずいる。私もその一人だ。農民だって、社長だって、自分たちの両手を使って働いている。稼ぐお金の値が違っても、お金の価値は一緒だと思う。
色々なそれぞれ違う役割を果たす人たちがいるからこそ、社会は成り立っている。しかし、人種差別や性別差別は、一部の国で今でも続いている。そして、国連など世界平和を精神とする国際組織は、差別が正しいと考える人たちに影響を与え、行動から無差別の良さを伝えている。
このことから、これから私は、小さな親切と呼ばれる行動の積み重ねで、あの女の子のように周りの人たちを影響していき、平等な社会を作り上げることが、私の一つの大きな目標だ。
