第36回「小さな親切」作文コンクール入賞・入選作品-15

入賞【中学生の部】

私がした小さな親切
福岡県 福岡教育大学附属久留米中学校 三年 國武真唯

 これは、塾に行く途中で、私がした小さな親切の話です。
 去年の夏休み、私が通っている塾では夏期講習中でした。塾に行く際、私は塾までの約三十分間の道のりを、毎日徒歩で通っていました。もちろん、塾に着くころには汗だくなので、ハンカチとタオルは必須で、常にバッグの中に入れていました。
 夏期講習も中盤に差しかかろうとする中、夏の暑さはピークを迎えていました。ある日、私が信号待ちをしていたとき、隣にいたおばあさんが、バッグの中に手を入れて何かを探していました。信号が青になっても、おばあさんは歩こうとせず、必死に何かを探していたので、私は気になって、
 「どうしたのですか?」
と声をかけて事情を聞くと、今日はいつも以上に汗をかいたのにも関わらず、あいにくハンカチを忘れたそうで、すごく困っていました。私は、急いでバッグからハンカチを引っ張り出して、
 「よかったら、このハンカチを使って下さい。私にはタオルがありますので。」
と言って、ハンカチを渡しました。おばあさんは驚いた表情で、
 「いいんですか?有難うございます。ですが、次いつあなたに会って、このハンカチを返せるのか分かりません。」
 「私なら、この時間に毎日この道を歩いていますよ。それに、そのハンカチは返して下さらなくても構いませんし……。」
と、私が言うと、
 「いいえ、絶対に返します。それでは、明日のこの時間に、この場所で待っていても大丈夫ですか?」
 「はい。」
 私たちはこのような約束を交わして、私はおばあさんと別れました。
 翌日、私は約束した時間に間に合うように行くと、既におばあさんは、その場所に来ていました。おばあさんは私に、
 「昨日は、本当に有難うございました。もしよかったら、袋の中に入れているお菓子、食べて下さい。それでは、またいつか……。」
と優しい笑顔で言うと、小さな紙袋を私に渡して、一分もたたないうちに別れました。
 塾に着いて紙袋の中身を見ると、昨日貸したハンカチと和菓子が二つ、そして小さな手紙が入っていました。手紙の一部には、こんなことが書かれていました。
 “私もあなたを見習って、出かける際は、ハンカチを二枚持ち歩くようにしています。あなたの恩を、一人でも多くの人に伝えたいからです。この度は、本当に感謝しています。ありがとう。”
 私はこの手紙を読んで、感動しました。私がした親切がこのような形で、また違う誰かへと広がろうとしていると思うと、嬉しくてたまりませんでした。そして、人にした親切は倍になって、自分に返ってくることを改めて実感しました。おばあさんからもらった和菓子の味は、今でも覚えています。
 このことは、一年経っても忘れることのできない、心温まった私のした小さな親切から生まれた、大切な出来事の一つです。

ラストゲームで気づいた親切
熊本県 京陵中学校 一年 野村拓生

 ぼくは、「小さな親切」と聞くと、小学校のとき所属していたサッカー部の最後の大会を思い出す。その大会に、ぼくはけがで出場することが出来なかったが、サッカー部の仲間からたくさんの親切を受け取り、忘れられない思い出になった。
 大会の二日前、ぼくは練習中にヘディングシュートをした。そのとき、頭から首にかけて「ギィーンッ」と痛くなり、クラクラし始めた。その日の練習は休み、念のため病院に行った。すると、病院の先生から、次の試合は出場しないようにと指示された。ぼくは、今までにないほど落ちこんだ。
 病院に行った後、サッカー部のみんなに大会に出られないことを知らせた。すると、まず試合の心配ではなく、みんなはぼくの体を心配してくれた。そのことが、すごくうれしかった。
 それまでは、「三年間頑張ってきたのに」と思って、落ちこんでいたが、みんなのこのような親切に気づき、「自分の出来ることをやりとげよう」と思った。
 そして、ついに大会当日になった。それまでに落ち着いた気持ちも、みんながウォーミングアップする姿を見ていると、やっぱり悔しい気持ちになった。でも、前日のみんなの親切を思い出し、気持ちを入れ替えた。
 そんなことを考えていたら、あっという間に試合が始まった。一試合目、二試合目は順調に勝ち進んだ。そして、見事決勝戦に進んだ。決勝戦の前半は、相手チームに一点リードされた。ぼくは、ハーフタイムにみんなに水を配ったり、声をかけてチームを盛り上げたりした。
 決勝戦の後半が始まり、ぼくはベンチの中で、自分の出来ることの全てをやった。のどがガラガラになるほど、応えんした。すると、まさかの逆転勝利を仲間がなしとげた。
 試合終了のホイッスルがなったとき、自分は試合に出ていないにも関わらず、今までに無いほど幸せな気持ちになった。その後、写真撮影があった。そこで、みんなから、
 「野村にトロフィー持たせろよ。」
と言う声が上がり、ぼくに優勝トロフィーを持たせてくれた。ぼくは、自然に涙が出た。「こんなやさしい親切な心を持つ仲間と、サッカーをやってきて良かった」という気持ちでいっぱいになった。
 ぼくはこのとき、人に親切にしたり、人をサポートしたりすると、後から自分が幸せになれるのだと学んだ。そして、親切な言葉をかけると、相手の気持ちがほっとすることを知った。
 ぼくは、今も中学校でサッカーをしている。ぼくが今一番心がけているのは、ピッチの上で、「ナイス」や「ドンマイ」という言葉をみんなにかけることだ。
 このように、これからは自分や他人が幸せになれるよう、「小さな親切」と言うものを大切にし、実行していきたい。

伝染していく幸せ
熊本県 白川中学校 二年 富永慶吾

 「昨日、うちの娘が、君のお姉さんにお世話になったようで、どうも有難う。」
 僕が小学校五年のとき、前の担任の先生に、廊下で突然お礼を言われてとても驚いた。訳がわからない顔をしていると、先生は、
 「えっ、聞いてないの?実はね……。」
と事情を説明してくれた。先生には、幼稚園に通うお子さんがいるが、仕事で幼稚園バスのお迎えに行けない。そこで、ボランティアのおばあさんに、毎日お迎えを頼んでいるそうだ。
 昨日もいつも通りにお迎えに行くと、急に大雨が降りだした。軒下で雨宿りをしていたが、なかなか止みそうもない。幼稚園のお子さんをずぶ濡れで歩かせる訳にもいかなくて、おばあさんが困っていると、向うから学校帰りの中学生の女の子がやってきた。
 その子は二人の様子を見ると、スッと傘をさし出して、
 「これ、使って下さい。私の家、あそこなので。」
と前方の建物を指差し、
 「ついでのときに、返してもらえればいいので……。」
と言うと、雨の中に走り出して行ったそうだ。その子のお陰で、二人はとても助かったそうだ。
 先生は、おばあさんから話を聞いて、建物の場所から僕の姉だと分かったらしい。
 「有難う。優しいお姉さんね。見ず知らずの人に声をかけて傘を貸すのって、勇気がいるよね。娘にも良いお手本になったわ。」
 姉のことをほめられて、僕はうれしくて誇らしい気持ちになった。
 家に帰って、母に話すと、そのおばあさんが傘とお礼の手紙を持って訪ねてきたそうだ。何度も、「有難うございます。」と言って、今どきこんなに親切な学生はいない。温かい気持ちになりました、と頭を下げて、帰られたという。母も、娘が人を思いやれる子に育っていることを、うれしく思っているようだった。
 学校から帰ってきた姉に話を聞くと、
 「そう、傘を貸したんだよね。」
とあっさり答えた。姉にとっては、当たり前の行動だったらしい。特別なことではないので、僕たちに話さなかったのだ。
 僕は正直、姉をすごいな、と思った。僕だったら、いいことをしたと自慢するかもしれない。それよりも前に、困っているなと思っても、はずかしいとか色々あって行動にうつせない。
 おばあさんからの手紙を読んで、姉もうれしそうだった。『お迎えの途中で、また会えますように。毎日の楽しみが、一つ増えました。』と書かれていた。
 姉の小さな親切で、おばあさんとお子さんと先生が、うれしくなった。その話を聞いて、僕や母や父もうれしくなった。祖父母も、孫の成長をうれしく思った。みんながうれしくなって、姉自身もうれしくなった。幸せが伝染した。
 人に親切にすること。そして、親切にされたら、お礼の気持ちを伝えること。それを続けていけば、幸せの輪がつながっていくと思う。

親切から生まれるもの
大分県 山香中学校 一年 坂本沙也香

 私のとなりの家に、親せきのおばあちゃんが住んでいます。小さいころから、いつもかわいがってくれていて、本当のおばあちゃんの様な存在です。そんなおばあちゃんは九十才近くて、一度体をこわしたこともあります。今は元気なのですが、やはり一人暮らしをしているので気になります。
 私は、おばあちゃんが退院したときに私にできること、おばあちゃんを助けてあげられることは何だろう、と考えました。私は今、おばあちゃんの家に毎朝、仏だんのおごくを持って行っています。おばあちゃんが炊いたご飯を仏だんのおごくに使ったら、おばあちゃんの分のご飯が少なくなってしまう、と思ったからです。
 本当は、洗たくやご飯を作ったり、そうじなどしてあげたいのですが、なかなか学校がありできません。おごくですら、時間がなくて行けなかったりしてしまう日も増えてきています。でも、行ったときはいつも、
 「早いねー。学校間に合うかえ?」
と、決まって言ってくれます。そして、
 「じいちゃんも喜んでるわ。」
と、うれしそうに笑ってくれます。私はこんな小さなことしかできませんが、おばあちゃんはとても喜んでくれて、私もうれしくなります。
 また、まだ誰にも言っていませんが、私はいつも仏様、そしておばあちゃんのだんなさん、つまり親せきの亡くなったおじいちゃんに、「ばあちゃんに幸せをあげて下さい」とお願しています。おばあちゃんはいつも帰るときには、私に、
 「ありがとう。」
と言ってくれます。
 私は、おばあちゃんの家に行く度に、おばあちゃんから温かい優しさをもらっているのを感じます。おかしをくれたり、朝見送ってくれたり、そして、何より私を心配してくれます。
 私が病気になって病院に行ったときは、仏様とおじいちゃんに、「沙也ちゃんが早く良くなりますように」とお願してくれたこともありました。私は、そんな小さな優しさがとてもうれしいです。いつも「おばあちゃん、ありがとう」と思っています。
 私は、親切をした分、親切は返ってくると思います。でも、親切は返してもらうためにするのではなくて、相手の気持ちを考えると自然に親切をしようと思う気持ちから生まれるものだと思います。
 相手の喜ぶ顔が一番、私はうれしいです。だから、私はずっとおばあちゃんに親切をしようって思います。親切をしたら、そこからたくさんの笑顔が生まれます。相手の笑顔、そして自分の笑顔。だから、世界の人たちみんなが相手の笑顔を大事にすると、世の中が明るくなって、みんなみんな親切をし合うと思います。
 親切から生まれるのは悲しいことではなくて、幸せな楽しい未来だと私は思います。
私は、小さな親切をこれからもしていきたいです。なかなか席をゆずるとか、重い荷物を持ってあげるなど、出会う場面は少ないかもしれませんが、そのときは心と心がつながるときだと思うので、相手のためにこの手を差しのべたいです。

私はまだ、あいさつ練習中
大分県 国見中学校 三年 山下穂乃香

 私たちの学校には、「あいさつと校歌の声は日本一」という伝統があります。学校内だけでなく、町内で出会った方々にあいさつをするのが習慣となっています。「こんばんは。」と言うと、かならず、「こんばんは。おかえり。」とか「遅くまで大変やね。」と言葉が返ってきます。
 その一言ですごく元気をもらえるし、血はつながっていないけれど、町内全体が家族のような存在であってくれます。見渡す限り、山と田に囲まれた田舎ではありますが、町内の方々の小さな親切の気持ちが、私は大好きです。
 私がどうしてあいさつを題材にしたかというと、ちょっとした発見があったからです。久しぶりに休みがとれて帰ってきたお姉ちゃんを送るため、家族で福岡に行ったときのことです。
 何気なく福岡市内で買い物をしていて、あることにふと気づきました。それは、誰もすれ違う人々にあいさつをしないこと。心の通い合いもなく、言葉のキャッチボールもないまま、ただただ人と人とがすれ違って行くのです。
 その光景を見て、私は寂しい気持ちと悲しい気持ちになりました。同じ日本人なのに、血がつながっていないだけで、こんなにも人は冷たいものなのか、と思ってしまったからです。
 確かに、私の地域は田舎で、福岡市と比べて大きな建物もないし、人も多くはいません。けれど、心のぬくもりがあります。小さな親切の気持ちが、常にそこにはあるのです。
 そこで、今度は自分があいさつをしてみようと思いました。もちろん、一つの路地に入った人気の少ない場所ではありますが、それなら私の地域と条件はかわりません。しかし、どんなに勇気を出しても、自分の口から「こんにちは」という言葉が出てきませんでした。
 無情にも、人だけが私の横を通りすぎて行くだけでした。私は、その場の雰囲気と環境に、すっかり飲みこまれていました。それと、「もし自分があいさつをしたら、どういう目で見られるのだろう。あいさつを返してくれるのだろうか」という不安と恐怖が自分の心の中にあったのだと思います。
 何度も何度も自分の心の中で、かっとうを繰り返してみたものの、やっぱり自分の口からあいさつの言葉が出てくることはありませんでした。
 私はこの体験を通して、小さな親切をする難しさを初めて知った気がします。小さな親切をするには、それなりの環境(雰囲気)と、とてつもなく大きな勇気が必要なのだと思いました。
 そう思うと、まだまだ自分にはそれほどの力は無いなあ、と反省しました。いつか自分が都会に出て、道行く人に出会ったとき、大きな声であいさつができるように、今はまだまだ練習中です。
 だから今は、自分の地域の環境(雰囲気)と人々に感謝して、「こんにちは!」とあいさつをします。

つながりのある親切
宮崎県 東大宮中学校 一年 増田有輝

 ぼくがした小さな親切は、祭の準備をしていたおじちゃんに差し入れをしたことです。
 朝、買い物をして帰ってくるときに、おじちゃんが一人で祭の準備をしていました。ぼくは、
 「こんな暑い中、大変だなあ。」
と言いました。それを聞いていた母が、
 「私が仕事にいくときも、一人でがんばっていらしゃるよ。」
と言っていました。ぼくは、みんなのためになぜここまでしてくれるのだろう、と思いました。
 ぼくは、家に帰ってからもおじちゃんのことで頭がいっぱいでした。ぼくは頭の中で、ポッと考えが浮かびました。「そうだ、差し入れでも持って行ってあげよう!!」。家にあったアメヤおかしや、自動販売機でお茶を買って、おじちゃんのいたところに自転車に乗って行きました。
 おじちゃんは、まだ準備をしていました。ぼくは、おじいちゃんに、
 「おじちゃん、ハイこれ差し入れ。いつもみんなのためにありがとう。」
と言って、差し入れをわたしました。おじちゃんは、
 「え、もらっていいの。ありがとうね。」
と言っていました。おじちゃんとぼくは、ベンチで座って話をしました。
 「なぜ、そこまでみんなのためにがんばっているの。」
と聞きました。おじちゃんは、
 「それは、みんなの笑い顔が見たいからだよ。」
と言っていました。ぼくは、そのとき分かりました。おじちゃんは、みんなの笑い顔が力の源なんだなあ、と思いました。
 そういえば、小学生のときに、おじちゃんは毎朝みんなの安全を守るために立っていてくれて、みんなのためになぞなぞを出してくれたり、早口言葉を教えてくれました。ぼくは、おじちゃんにいつも親切にされていたのだと気付きました。
 そういえば、ぼくはみんなのためにがんばったことはあるか、と心に思いました。ぼくは、みんなのためにがんばれるおじちゃんが素晴らしいと思いました。だから、おじちゃんは子どもやいろいろな人に声をかけられたり、人気者なんだなあ、と思いました。ぼくは、おじちゃんに、
 「そろそろ帰ります。」
と言いました。おじちゃんは、
 「あら、そう。今日はありがとうね。なみだが出そうだったよ。」
と言いました。ぼくは、
 「いえいえ、おじちゃんもがんばって下さいね。」
と言いました。
 人に親切にすると、気分が良かったです。親切と親切は、つながっています。

小さな親切ポスト
鹿児島県 伊敷中学校 三年 日髙環奈

 「よし。」
 私が、いつもの通りに整然と並べたトイレのスリッパ。小学校五年生のあの瞬間が、今も心から離れない。私は、毎回トイレから出るとスリッパを並べる習慣があった。それが、普通だと思っていた。しかし、それは一瞬にして覆された。
 ある休み時間、仲良しグループでトイレに行った。どこの学校でも見られる光景だろう。そして、ぞろぞろと中へ入って、みながみな個人の用をすませた。それまではよかった。
 しかし、次の瞬間、私は自分の目を疑った。そのくらい驚いた。なぜなら、みんながスリッパをけっとばして遊び、そのまま教室に戻って行こうとしたからだ。ブランコをしながら、靴を飛ばす遊びは見たことがあったし、自分もそれで遊んだ思い出もあった。だけど、トイレのスリッパをけっ飛ばすなんてあんまりだろう、と思った。
 私は驚いたのと同時に、いろいろなことが頭をよぎった。ここは注意しないと。そう思ったけれど、友達にまじめって思われるのは嫌だった。しかし、注意しないといけないのは当たり前、ということぐらいは分かっていた。それに、私は保険委員会の副委員長だった。
 しかし、結局言えずに、心のもやもやをもって教室へ戻った。授業中もずっとトイレのスリッパのことが気になった。私は次の休み時間、一人でトイレに行って、急いでスリッパを並べて、急いで教室に戻った。私は心がすっきりした。
 だが、それと同時に自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。保健副委員だからといって、無理やりしているのではなかった。しかし、それが良いことなのか分からなくなってきた。でも、私のスリッパを並べる習慣については、幼いころから継続してきたことだったから、おかしいことだとは思わなかった。それに、その習慣を馬鹿にされたことは無かった。しかし、ほめられたことも無かった。
 そんなある日、私の心の中が一瞬にして変わることがおきた。それは、「小さな親切ポスト」という箱だ。その箱は、小さな親切をしている人を見かけたり、自分が親切にしてもらったときに、紙に書いてその箱に入れる。そうすると担任の先生が、親切をした人に、そのことをそっと教えてくれるのだ。
 なぜ、そっと教えてくれるのかは分からないが、たぶん親切にしてもらった人は、親切にしてくれた人に直接、感謝の気持ちを伝えるのは恥ずかしいからかもしれない。そして、私はある先生に呼ばれた。その先生は、満面の笑顔を浮かべていた。そして、何かの紙を見て一言。
 「環奈が、トイレのスリッパを並べているのを何回も見かけています。ありがとう。」
と言って、先生は小さな親切ポストを指さした。私は初めて、自分の習慣が良いことなのだ、と気付いた。
 小さな親切ポスト、ありがとう。

私がしてもらった親切
鹿児島県 阿久根中学校 三年 牧内美樹

 私は、東北地方太平洋沖地震で被災しました。そのとき、多くの優しさを受け、感じたことがあります。
 地震のときは、家で一人、テレビを見ていました。両親は仕事中で電話も繋がらず、私はパニック状態でした。そんなとき、近所の人が冷静に対応して下さり、落ちつくことができました。また、親とも無事会うことができました。
 次の日、原発の影響により、家族で三春町の体育館に避難しました。当時は、すぐ戻れるだろうと思っていたので、必要最低限の荷物しか持って行きませんでした。でも、避難所の「親切」により、不自由なく生活することができました。
 食事面では、町民の方々が作って下さったおにぎりや、送られてきた物を調理したサラダやみそ汁、カップラーメン等もあり、一日三食、食べていました。生活面では、毛布やタオル、衣類等の物を頂いたり、お風呂も三日に一回くらいのペースで無料で入らせてもらったりしました。
 避難所では、友達とメールをして過ごしていました。そこの避難所には、同じ学校の人がいなくてとても寂しい思いでしたが、「大丈夫?」と心配してくれたり、「頑張れ」と応援してくれたりして、勇気をもらいました。そして、友達の大切さとありがたさを改めて感じました。
 一週間くらいして、二十三日に母と二人で、鹿児島県の祖母の家に避難することが決まりました。でも、私は嫌でした。なぜなら、ずっと一緒にいた友達と離れてしまうし、文化や言葉も違う所で新しい友達ができるのか、いじめられないか不安でいっぱいだったからです。
 でも、実際学校に行ってみると、近くの席の人が優しく話しかけてくれました。それからも友達が沢山でき、鹿児島について教えてもらったり、逆に福島でのことを教えたりなど、色々な話をするようになりました。
 また、周りが明るい人たちばかりなので、前よりも笑顔でいるときが増え、楽しい学校生活を送っています。
 今回、私は多くの方々に親切にして頂きました。この感謝の気持ちを忘れず過ごしていきます。まだ物資がなく、大変なときを過ごしている人も大勢います。福島の友達の中には、生活に慣れることができない人もいます。父は仕事の関係上、福島に今も居て、本当に大変そうです。
 私にできる親切も沢山あるので、今度は恩返しの意味も込めて困っている人に声をかけたり、福島の友達に励ましのメールを送ったりするなど、自分から進んで良いことをしていきたいです。

第36回「小さな親切」作文コンクール入賞・入選作品-14

入賞【中学生の部】

ありがとう
山口県 室積中学校 一年 西村日向子

 私には、今でも心に残っている小さな親切があります。
 小学生のころ、私は学校から家がとても遠かったです。毎朝六時五十分に家を出ますが、家の周りには友達は住んでいませんでした。だから登下校がきらいでした。特に冬は寒くてまだ太陽も出ていなくて、とてもこわかったです。
 でも、一つだけ安心出来たことがあります。それは、地域パトロール隊の音楽です。とても大きな音にびっくりするけれど、安心します。この運動は、本当に私たちのための親切だと思います。この親切は、「小さな親切」に本当に当てはまっていると思います。
 毎朝七時前から車でパトロールをしてくださいました。低学年のころは、人がいるというだけで、本当にうれしかったです。実際はパトロールだけでなく、横断歩道にも立ってくださいました。
 私は今になって、やっとボランティアのありがたさが分かりました。私が六年生のころ、どうして朝の忙しいときに、私たちのためにここまでしてくれるのだろうと思っていました。
 今考えるとそれは、私たちへの一つの愛情表現だったのだろうと思います。昔は、地域パトロール隊に限らず、いろいろな人にありがとうが言えなかったけれど、この作文で「ありがとう」が伝えられたらな、と思います。私たちが、こうして地域の方々に見守っていただいていたことは、とても幸せなことだと思います。今この作文を書きながら思い出してみると、うれしさと感謝で胸がいっぱいです。
 私も大人になったら室積にいるか分からないけれど、この運動をしていけたらと思います。もし人が集まらなくても、周りの人をさそっていきたいと思います。
 地域のみなさんは、朝早くからどんな気持ちでやっているのだろうと思うと、とても心が明るくなります。でも、友達が
 「パトロールの音ってうるさくて、びっくりするよね。」
と言うのを聞くと、なんだか私も悲しくなります。
 私はこの運動を長い間やっていると聞いているので、これから先も、ずっと続けていけたらいいな、と思います。
 迷惑と思っている人、思っていた人、いると思います。早くパトロールの意味に気づいて、感謝の気持ちを持ってほしいです。
 そして私が今、一番すごいなと思ったのは、一度もパトロールの人がいないのを、見たことがありません。
 今、私が毎日安心して登下校できるのは、パトロールの人たちのおかげです。毎日、本当にありがとうございます。そしてこれからも、私たちのことを見守っていてください。

私の親切
山口県 和田中学校 二年 桑原未来

 私は小学生の頃、バスで通学をしていました。家から百メートルぐらい離れたバス停まで、毎日通っていました。
 そこは、私が生まれた時からその場所にあって、父も、母も、姉も、家族全員が利用している、思いの強いバス停です。
 小学四年生のある日のこと、いつも通りにバス停に行くと、そこがすごく汚れていました。思えば前日は、強風で荒れた天気だったので、バス停の中の一角が、吹きだまりになったようで、周りの山の木々のかれ葉や、道ばたの砂や、空のペットボトルなどが、一かたまりになっていました。それは、身震いがするほど汚いものでした。
 これを見た私は、一日中(車中でも、学校の授業中でも)その光景が頭から離れませんでした。しかし、その日は用事があったので、何もできませんでした。
 夜中、私なりにどうしようか考えていました。ほうきで掃いた方が、効率がいいのか?先にゴミだけ取った方がいいのか?いろいろ迷い考えました。
 翌日、いつもより早く、ゴミを入れるための袋を持って家を出ました。最初にペットボトルと、かれ葉を拾って、袋に入れました。
 私は、手で拾っていたので、それ以上の物は拾う気がしませんでした。それは、手が汚れて、すごく嫌な気分になったからです。その臭いは強烈で、吐きそうになるほどでした。ほこりが舞い上がり、息をするのも嫌なくらいでした。
 ふと横を見ると、ほうきがあるではありませんか。私はそれを見て、とびつくように取り、今度は小さな髪の毛や、砂なども、すみずみから掃き寄せて一か所に集めました。それは非常にたくさんのゴミの山でした。
 私は、自分のしたことはちょっとしたことだけれど、我ながらよくやったと思いました。
 このことは、小さいことだけれど、実は大きなことにつながったことが一層うれしいことです。というのは、後で友達に話したところ、なんと一人、二人と次第に地域清掃の輪につながっていったからです。
 これをきっかけに、地域のバス停は、景観がとてもよくなりました。毎日使うバス停を利用するのが、気持ち良くって、楽しくなりました。多分、私、友達、近所のおじいちゃん、おばあちゃん、利用者すべての人々も気持ちよく利用しているのではないかと思います。
 今、私は中学生になりました。そのバスは利用することがなくなりました。けれど今でもバス停は建っているのでしょうか?
 このバス停だけでなく、あのバス停も、このバス停も、地域の人々の利用する場所すべての場所がきれいになることを望んでやみません。
 親切をすることは、こんなにうれしいことだと、改めて感じました。

誰にでもできる親切
香川県 南中学校 一年 大崎利奈

 五月下旬、私は部活帰りに、友達と四人で下校していた。しばらく行くと、後ろを走っていた二人の友達に、「待ってえ」と呼ばれた。ふと後ろを見ると、約三十メートル離れた所で、二人の友達が困って助けを求めている。私は急いでかけつけた。
 すると、自転車の荷台に荷物をくくりつけていたひもが、タイヤにグルグルと巻きついて、自転車が動かなくなっているではないか。私はとりあえず自分の自転車を道路ぎわに停め、巻きついているひもの様子を確認した。友達と力を合わせて、少しずつひもを外し、ようやくあと少し。
 と思ったその時、ゴロゴロ、ガタガタ、ドッスンと、大きな音がした。音の方に目をやると、その光景に私は驚いた。私の自転車とかばんが、風にあおられ、道路横のどぶに落ちているではないか。私はあ然とした。
すぐに友達が、自転車をどぶから上げようとしてくれたが、持ち上がらない。私も何度もためしてみたが、やっぱり持ち上がらない。まだ学校は近かったので、友達が先生を呼びに行ってくれた。
 道路を通る車の人たちも、「どうしたの?」という目でこちらを見ているが、そのまま素通りだ。その視線がとても冷たく感じた。私はその場で「助けて下さい」と叫びたかった。
 二十分経っても、友達と先生はなかなか来ない。どんどん不安がつのっていく。ついには、なぜ私の自転車が、こんなめに合わなければならないのだろう、友達に呼び止められていなければ・・・と思ってしまった。
 そんな時、自転車にひもがからまっていた友達が何度も、
 「ごめんなあ、ごめんなあ、うちのせいでこんなことに・・・。」
と自分を責めて、謝ってくれた。私は余計にむなしくなって、泣きそうになった。
 そんな時、一人の男の人が、車を停車させ、私たちの方にかけよってくれた。どう見ても、サングラスをかけて恐そうな男の人。でもその人は、
 「おっちゃん、こんな恐そうな見た目やけど意外と優しいで。」
と声をかけてくれ、とても安心した。
 おじさんは、自転車を一人でらくらくと上げ、おまけにかばんがすごく汚れているのを見て、タオルと水もくれた。私はそんな優しさ、親切で、すごく救われた。ついさっき、友達に呼び止められなければ、などと思った自分がバカらしく思えた。ふと思うと、みんなが互いのことを思いやっていたことに気づき、私の心はポカポカした。
 親切は、した人もされた人も、温かい気持ちになる魔法のようだ。私のように小さな親切で救われた人は、少なくないと思う。思いやる気持ちさえあれば、小さな親切は誰にでもできること。一人ひとりが、小さな親切を心がけると、信頼も強まり、社会はもっと明るくなるだろう。
 そのためにも、私自身が人をいたわり、優しくできる、信頼される、そんな人を目指していきたい。

一枚の定期券
香川県 太田中学校 二年 竹田 翔

 それは、テニスの朝練から帰っていたときのことだった。友達三人と自転車で話しながら帰っていた。
 すると、急に一人の友達が自転車を止め、来た方向に引き返していった。何かを拾ったようだった。それを三人で見ていると、琴電の定期券だった。僕は、警察か、琴電に届けようかなと思った。
 しかし、友達が「もう、ほっとこう」と言ったので、僕は何も言えずにただカードを見ているだけだった。
 帰ってからも、ずっとそのことが気になっていた。そこで、思い切って母に話してみた。母は、
 「どこにあるん?今から探しに行くで。」
と僕を車に乗せ、その場所まで連れて行った。
 定期券は、草のかげにまだあった。手に取りよく見ると、まだ三か月先まで使えるということと、五万円分の定期券だということが分かった。すぐに交番に届けた。
 おまわりさんは、
 「これは困っとるやろーな。でも名前も書いてあるから、必ず持ち主の所に届くよ。」
と言った。それを聞いてすごくほっとした。
 帰ってから、母とゆっくり話をした。母に、
 「五万円も入った財布を落としたら、どんな気持ち?」
と聞かれた。僕は、絶対ショックで辛い気持ちになると思う。
 そして、母に言われたのは、「お金を稼ぐのは、大変なことなんやで。五万ってどれだけ働いたらもらえると思う?」ということだ。
 この言葉から、僕は「何ですぐ拾ってあげんかったんやろう。」と、心が痛んだ。
 どんなところにでも落し物はあるけど、見て見ぬふりをしてしまうことがある。自分にとっては、何でもない物でも、その人にとっては、すごく大切な物かもしれない。学校でもろう下や教室に、物が落ちているのを見かけるが、「誰かが拾うだろう」と、知らないふりをしてしまう。でも、そんなことはもうやめたい。
 今回のことで、物の大切さ、相手の立場に立って物事を考えることの大切さを、身を持って感じることができた。
 実は、母は数年前に、お店のATMに通帳を置き忘れて帰ったことがあり、真っ青になったそうだ。幸いにも親切な方が銀行に届けてくれていた。それがどこの誰なのか分からないけれど、届けてくれた人にとても感謝しているし、何年たっても忘れない出来事だと言っていた。
 もし定期券を届けていなかったら、ずっと心に引っかかって後悔したと思う。
 一枚の定期券が、僕に大切なことを教えてくれた。
 この経験から、自分が相手の立場に立ち、見て見ぬふりをしない人になりたいと思った。
 定期券が、持ち主の所に届きますように。

『シンコキュワ』
徳島県 加茂名中学校 一年 片岡 蘭

 私は夏に、すごく落ち込んでいる時期がありました。
 理由は、何もかもうまくいかなかったからです。勉強の成績は悪く、部活では失敗ばかりして、友達とはけんかの毎日が続いていました。学校でのストレスのせいで、家では家族にやつ当たりばかりしてしまい、本当にそんな自分がいやでした。
 そんなある日、学校から帰り、かばんの中から教科書を取り出すと、一枚の封筒がひらひらと落ちてきました。なんだろうと不思議に思いながらそれを拾い、貼ってあるシールをはがして中を開けると、それはクラスメイトからの手紙でした。中には、水色の小さい字で、こう書いてありました。
 『シンコキュワ』
 私には、はじめこの言葉の意味が分かりませんでした。わざわざカタカナで書く意味も全く分かりませんでした。それに、深呼吸と書きたかったのだろうけど、最後の「ウ」が、「ワ」になっていて、本当に意味の分からない手紙でした。
 次の日私は、それを持って、手紙をくれた友達のもとへ行きました。
 「この手紙、何?」
と私が聞くと、その子は平然とした様子で
 「中に書いてある通りやけど。」
と言いました。私が、
 「シンコキュワって、どういう意味?」
と半ば笑いながら言うと、その子の表情が変わりました。そして私の手から手紙を奪い、まじまじとそれを見ると、大笑いしながら、
 「ごめん、書き間違えた。深呼吸って書きたかったのにー。」
と言いました。しっかりしてよ、と私も笑ったけれど、本当はとても楽しかったです。笑うこと自体久しぶりだったから、お腹が痛くなるほど笑いました。
 その友達は、最近私が疲れているのに気がついていて、何とかはげましたいと思い、あの手紙をくれたのだそうです。何故、直接渡さなかったのかと聞くと、恥ずかしかったから、と言っていました。
 私は、「シンコキュワ」の言葉のおかげで何事に対しても、明るい気持ちで取り組めるようになったし、いやなことがあると、落ち着いて深呼吸しました。それに、誰かが自分を見てくれていたということが、何より一番うれしかったです。
 自分は小さい親切のつもりでも、親切を受けたほうは、それはとても大きな元気に変わるんだと、身をもって実感しました。
 私も、困っている友達がいたら、少し声をかけてあげようと思います。誰かのことをきちんと見つめる。まずはそこから始まると思うのです。
 きっと私の見ていない場所で、苦しんでいる人はいると思います。私はその人に「深呼吸して」、そう言ってあげたいです。

おせったいの心
徳島県 鳴門教育大学附属中学校 三年 有吉陽香

 私の家は、四国八十八カ所札所の遍路道に面している。二番札所の極楽寺と三番札所の金泉寺の間にある。春、夏、秋には歩きへんろをする人も多く、ツアーで歩いている人もいる。一人歩く人、家族や友人と歩く人、と様々である。
 歩いているおへんろさんに不快感を与えないよう、私たちは玄関先をこまめに掃除したり、草をむしったりしている。夕方、犬の散歩をするときなどは、道端にちらばっているゴミを拾うこともある。用水や田んぼの中、人通りの少ない道、空き地にはよく空き缶やペットボトル、ビニールなどが捨てられている。見つけるたびごとに拾うのだが、なかなかきれいにならず、どうしてゴミ箱に捨てられないのだろうと思う。
 そして、これを見るおへんろさんの心情を思いやっていると、ふと思いついて、おせったいをこの夏に心がけてみることにした。
 小さな頃から、おへんろさんを見かけると挨拶し、道案内することは当たり前のこととして育った。しかし、取り立てて何かおせったいする、という経験はなかった。
 おせったいとは、へんろ道沿いに住む人が、おへんろさんに食べ物や飲み物を差し上げることだ。昔は食事や、一泊の宿までも提供したらしい。
 代々、四国にはこの「おせったいの心」が受け継がれている。私が出会ったおへんろさんは、お医者さんや子ども、定年を過ぎた人などで、全国各地だけでなく、外国から来られている人もいた。
 朝、畑でとったトマトを水洗いし、少しでも冷たいものを、と氷水で冷やした。飴を選ぶときには、熱中症を考え、塩分の入ったものや、黒糖で作られたものを探した。
 どの人も、私がおせったいすると「ありがとう」と、笑顔で言ってくれた。声をかけるのは恥ずかしかったけれども、こんなつまらないものなのに、お礼を言われると、やはり嬉しかった。知らない者同士なのに、笑顔で話すことが出来た。おへんろさんと会話する中で、心までおせったいできたように思えた。
 今、このへんろ道を世界遺産に登録しようとする動きが広まっている。だが、へんろ道にゴミが多いので、なかなか登録されないらしい。へんろ道に住む私たちが、個人や団体として働いていても、やはりゴミを捨てる人がいる限り、ゴミは残ってしまう。
 ゴミを捨てるのは、捨てられているゴミを見て、捨ててもよいと思ってしまうからではないだろうか。だからへんろ道が、もともときれいだと、捨てる人の心もきれいにし、ゴミは減ると思う。
 おへんろさんが、気持ちよく歩けるように、心を砕くことがおせったいならば、美しいへんろ道を保つこともおせったいなのかもしれない。
 私はへんろ道を、そこに住む人々のおせったいの心も、未来に残す価値があるものとして、世界遺産に登録してほしい。自分が発信したおせったいの心が、世界中の人々の心の潤滑油となり、再び自分に返ってくればよいと思う。

地域の美化に私たちが出来ること
福岡県 仲津中学校 一年 弓野 悠

 私たちの地域では、二か月に一度、となり組の人たちが集まって、空きカンなどのゴミを拾う活動をしています。
 私のおばあちゃんもこの活動に取り組んでいるので、田んぼや道に落ちている大きなゴミや、小さなゴミまでがんばって拾ってくれています。みんなで集めたゴミは、ボランティアの袋に入れて、ゴミ収集場所に持って行きます。
 自動販売機のそばの田んぼの中には、いつも空きカンやペットボトルのゴミがたくさん落ちているそうです。私は自動販売機で飲み物を買い、その場で飲み終わった空きカンを田んぼに捨てていく人が多いんだろうな、と思いました。
 そのほかにも、道などに学習塾の宣伝パンフレットがたくさん落ちているそうです。私もそれを学校帰りなどによく見かけます。人の家の庭や田んぼの中にまで、たくさん捨てられているので、田んぼの持ち主や、近所の家の人たちは、とても迷わくしているだろうなって思いました。
 そのほかに、どのようなゴミがあるか聞いてみると、食べ終わったおかしの袋やたばこの吸いがらなどがたくさん落ちているそうです。私も一度、車の窓からたばこを捨てている人を見たことがあります。そんな大人の人は、自分の車の中だけがきれいになればいいと思っているのでしょうか。また、歩きながら、たばこを道に捨てているのだと思います。小さなたばこ一つと思っていますが、それがたくさんのゴミの一つということになります。
 もう一つは、草むしりや草かりをする活動をしてくれています。特に夏場は、冬に比べると、雑草が伸びるのが早いので、私たちの通学路やよく通る道には、たくさんの雑草が生えています。雑草が生えると、蚊やハエなどの害虫が増えて困ります。また、白線の中にも、長い雑草がたくさん生えてきて、歩くときや自転車に乗って通るときに、どうしても白線からはみ出してしまい、車の通る道路に出てしまって、とても危ないです。
 でも地域の方々が、そのような雑草をがんばってぬいたり、刈ったりしてくれているので、道路にはみ出ることがなく、とても助かります。
 ゴミが一つもない、きれいな地域にするためには、一人一人がゴミを勝手な場所に捨てずに、きちんと家に持って帰って捨てるということが大切です。もし、自分の田んぼや家の庭などにゴミが捨てられていれば、誰だっていやな気持になります。そのように考えるとだれもゴミを捨てない、きれいな地域にしていけると思います。
 そうして、地域の人たちが集まって、空きカンやゴミを拾う必要のない日が早くくればよいと思います。

あと一歩の勇気
福岡県 福岡教育大学附属小倉中学校 二年 赤池竜馬

 夏休みに入ってまだ間もない日、僕は病院で診察を受けるため、東京まで出かけていた。診察を終え、まだ帰るには時間があったので、僕は母に連れられ、東京大学を散策した。緑豊かで広大なキャンパスの中は、古く重厚な建築物が立ち並び、美しかった。僕はそこで良い思い出を、たくさん胸に刻み持ち帰った。ある出来事を除いては。
 それは、東大病院前を歩いていたときのことだ。一人の男性が、けいれんしながら倒れた。そこへ友人は即座に駆け寄り、声をかけていた。母も足早にその場へ行き、
 「何か出来ることはありませんか。」
と尋ね、病院の中へ医者を探しに、走り込んでいった。僕もその後を追った。
 戻って来ると、たくさんの人が見守っていた。母が呼んできたお医者さんは、携帯で仲間を呼び、あっという間に、大勢の医師や看護師が集まり、ストレッチャーを含む医療器材も運ばれ、男性は彼らと共に、病院の中へと消えて行った。
 そして、母が呼んだお医者さんは、最後まで残り、「ありがとう」と、お礼を言って、去って行った。
 だが僕は、その後もその場を立ち去ることが出来なかった。何故だろう。立ちつくしていた。嫌な思いが残った。後で分かった。自分の中に後悔があったのだ。
 男性が倒れたとき、直ぐに駆けつけ「大丈夫ですか」と、声をかけることができなかった。母は相手が必要とすることが何なのか、尋ねて行動に移していたが、僕は自分から聞けなかった。母の後をついていくだけだった。僕は目の前に苦しんでいる人が助けを求めているのに、自分の中の戸惑いによって、手を差し伸べることが出来なかったのだ。
 事件でも、事故でも、天災でも、病気も含めて何か悪いことが起こったときは、即断し、俊敏に行動に移すことが大切だ。何故ならその後の結果に反映されるからだ。良いと思ったことは、勇気を持って行動に出る、実行力が大切だ。いくら頭の中で考えていても、実行しなければ絵に描いた餅となる。結果は時と共に益々悪くなってゆく。
 東日本大震災以降、「がんばろう、日本」のかけ声と共に、人々は自分に何ができるのかを考え続けている。ボランティア、義援金、医療、いろいろな分野で自分に出来ることを、出来る範囲で、一過性ではなく、十年、二十年スパンの長い目で支えていこうと考えている。
 僕は、誰もが役に立ちたい、助けたいと思う風の流れの中に生きている。それは温かく、高貴で、尊ぶべき心だ。その時代の中で、僕は今回の出来事から、いくつかを学んだ。それは役に立ちたいと常に思い続けること。そして、勇気を持って実行に移すことだ。
 これからは、身近なことに気づけるセンサーを持ち、戸惑うことなく、自信を持って行動し、後悔なく生きたい。まずは自分のできることから始めたい。

第36回「小さな親切」作文コンクール入賞・入選作品-13

入賞【中学生の部】

あなたにもできる小さな親切
奈良県 鹿ノ台中学校 三年 橋本夏美

 二〇一一年三月十一日、日本で「東日本大震災」が起こりました。奈良でも、強いゆれを感じるほどの大きな地震でした。テレビでは、被災地の荒れ果てた町の様子が報道され、私は心を痛めていました。
 そんな中、外国からの支援や他県からのボランティアが復興の手助けをしている姿も目にしました。日本のために、世界が協力してくれていることに感動しました。そんな多くのボランティア活動の中で、気になるものを発見しました。
 奈良県生駒市出身のカメラマン、三田さんたちによる写真などの修復ボランティアです。テレビでも一度目にしたことがあり、学校の学習会にも三田さんに来ていただき、お話を聞きました。
 震災により傷付いた写真やアルバム、思い出の品などをできる限り修復し、持ち主の元へ届けるといった活動をしています。やっぱり、写真などはいくらお金を出しても買えないものだから、被災者にはとっても価値のあるものなのです。
 しかし、写真一枚を修復するのには一~三時間もかかるそうで、パソコンの技術も必要です。三田さんは震災前、世界一周旅行に行っている途中だったのですが、それを中断し、自分の持っている技術で被災者の人たちを元気づけようとしているのです。
 私は、同じ奈良県出身の人がこんな素晴らしい活動を行っていることに感動し、誇りに思いました。自分の持っている力を最大限に生かした活動だと思います。
 それから、私は自分にもできるボランティアはないかなあ、と考えるようになりました。そんなとき、地元の小学校で、いらなくなったランドセルを被災地の一年生に届けるといった活動をしていることを知りました。
 私は、「私にできる最大限のことはこれだ!!」と思い、迷うことなく寄付することに決めました。そして、たくさんの友達も誘って、ランドセルを集めました。みんな快く承諾してくれたので、予想以上にたくさんのランドセルが集まりました。これで、被災地の一年生が元気に入学できると思うと、うれしくてたまりませんでした。
 こうしたボランティア活動は、誰でもその気になればすぐ実行できるのです。たくさんの人が、自分にできる小さな親切を被災地のためにすることで、それは大きな力になるのです。
 まだまだ完全な復興をするには、多くの人々の力が必要です。自分にできる小さなことからでもいいのです。日本のために、力を貸してみるのはどうですか。

小さな親切が私にくれたもの
兵庫県 灘中学校 一年 山下真由

 私には、小さな親切をしたことで、とびっきり楽しい時間を過ごした思い出があります。
 家族で、ユニバーサルスタジオジャパンへ行ったときのことです。私と兄は好きなアトラクションが違うので、夕方以降は別行動をしました。私は、急流すべりへと急ぎました。
 混雑のため長く待って、やっと渦巻状になった階段にさしかかったときです。ふいに聞きなれない言葉が耳に入ってきました。外国の男の子が、お母さんと何か言い合っています。お母さんが、「水に濡れるみたいだからやめよう。」と言い、男の子は「ずっと楽しみに待っていたんだよ。」と不満そうでしたが、結局説得をされて、順番待ちの列から離れはじめました。
 私は、リュックからちょうど取り出そうとしていた合羽を男の子へ差し出し、勇気を出して「兄と父が使わなかった合羽です。使って下さい。」と話しかけました。男の子は飛び上がって、お母さんは遠慮がちにお礼を言ってくれました。それからの長い待ち時間は、男の子との楽しいひとときへと変わったのです。
 男の子の名前は「デービット」で同学年です。合羽のお礼にもらったカラフルなガムを食べながら、おしゃべりなデービットから、イギリス人であること、国や学校のこと、日本の感想、留守番のお父さんのこと、サッカーやゲームに夢中なことなど、笑いあり驚きありで、共通の話題が多くとても盛り上がる交流ができたのです。隣同士でほぼ同時にスタートした急流すべりはデービットと私の絶叫が周囲に大きく響きわたりました。すっきりした気持ちでいる私に「楽しかったよ。ありがとう。また会おうね。」とお別れの挨拶をくれました。
 遠くイギリスから来たデービットに、この体験をしてもらえて本当に良かったです。
 あれから私は、世界の国に興味を持ち目標に向かって英語の勉強をしています。デービットに出会ったことで、ジェスチャー頼りの英語でも、コミュニケーションをとり自分の思いを伝えられる喜びを感じたのです。世界の国について知ることは本当に面白いです。環境が違う世界中の国で、いろんな思いを抱える同年代がいます。日本の常識が世界で通じないこともあると気付きました。私たちが大人になる頃には、今よりもっと世界の国と密接に関わっていく機会が増えると思います。私は、将来英語を活かした国際協力の仕事をしたいと思いはじめています。今回の小さな親切は、私の視野を広げて将来の可能性を大きくしてくれました。きっと親切は、受けた人だけではなく、した人にも何らかの影響を与えるものだと思います。意識できるのか、できないのかはあると思いますが、心の奥深くでよい影響を双方向に受け合っているのだと思います。
だから親切をした後は、心が軽く温かくなるのでしょう。
 小さな親切がきっかけとなった、あのとき二人で撮った写真は、夢をあきらめず努力していく私にいつも励ましのメッセージをくれる大切な宝物です。

私の見た親切
鳥取大学附属中学校 二年 山崎裕雅

 家族で、スーパーに買い物に行ったときのことです。買い物が終わり、ぼくは買い物のカートを、駐車場にある指定の場所に返しに行きました。カートは三種類あり、それぞれ種類別に置くようになって、場所をとらずコンパクトに収納できるようになっています。
 だけど、ぼくが行ったカート置き場は、形の違うものが同じ列に置いてあり、ぐちゃぐちゃの状態でした。ぼくはそれを見たとき、とてもいやな気持ちになりました。
 自分たちが使ったカートなのだから、最後まできっちり片付けてほしいし、自分はこういう人になりたくない、と思いました。だから、ぼくは自分の使ったカートは指定の場所にきっちり片付けるぞ!!と強く思いました。
 そのとき、一人の女の人がカートを返しにきました。このカート置き場を見て、きっとこの人も、ぼくのように不快な思いをしているだろうな、と思いました。
 ところが、その女の人は、ちらかっているカートをささっと手際よく片付けだしました。そして、全てきれいに並べたあとに、自分の使ったカートを指定の場所に置いて帰って行きました。イラッとした気持ちになっていたぼくは、この親切な行動を見て、一瞬に心が温かくなりました。と同時に、ぼくは自分の心のせまさをはずかしく思いました。
 片付けていなかった人たちを批判するだけで、協力する気持ちや助け合う気持ちはなかったからです。自分の分はきれいに片付けるけれど、他人がちらかしているカートを片付けてあげるという気持ちを、ぼくは持っていませんでした。  
 この女の人は、とても心のきれいな人だと思いました。他人のことでも自分のことのようにできる、助け合う心を持っている優しさのある人だと思いました。
 ぼくの人に対する考えも少し変わってきました。カートを片付けていなかった人は、もしかしたらお年寄りの人だったり、体の不自由な人だったかもしれません。買い物をした品物が重たくて、それを持つだけでせいいっぱいで、カートを指定の場所に片付けることが出来なかったのかもしれない。
 親切な行動を見て、ぼくの心は優しくなれたように思いました。もし、いつか今日のようなことがあれば、今度はぼくが、進んでカートを片付けられる人になりたいと思いました。
 今年の三月に東日本大震災があり、多くの犠牲者がでました。今、日本は復興に向けてみんなが力を合わせてがんばっています。震災の後、新聞やテレビで絆という言葉をよく見ます。一人一人が力を合わせて助け合うことの大切さを改めて感じました。
 ぼくも日頃から、人に親切にする気持ちを忘れずに生きていきたいと思いました。

感謝の「おじぎ」
島根県 仁多中学校 三年 立石俊哉

 みなさんは横断歩道を渡ったあと、止まって下さった車の運転手さんにお礼の気持ちをこめた「おじぎ」をしていますか。
 僕が小学校に通っていた通学路には横断歩道はありましたが、歩行者用の信号機はついていませんでした。そんな横断歩道を渡ろうとしたとき、ほとんどの車は止まって下さいました。信号機が赤になっているわけでもないのに、わざわざ止まって下さった運転手さんに対して、お礼の気持ちをこめたおじぎをすると優しくおじぎを返して下さったり、笑顔になられたりしたときはこっちまで嬉しくなりました。
 中学生になったある日、信号機の付いた横断歩道を渡り、いつものように止まって下さった運転手さんに頭を下げると、友達から
 「何で頭なんか下げてんの?いいよそんなことせんで。歩行者が優先なんだから。」
と言われました。
 「えっ!!みんなは頭を下げないんだ」とかなり驚きました。小学生のころから、止まって下さった車にはおじぎをするのが当たり前だと思っていたのに、みんなはしていないということを知り、「まぁ、みんなしていないし、歩行者が優先なら車は止まるのが当たり前か」と思うようになり、それからは横断歩道を渡っても頭を下げなくなりました。
 何日も頭を下げずにいると、今度は逆に頭を下げないことが当たり前となり、止まって下さった運転手さんのことなど考えることも無くなっていました。
 そんなある日、あるCMで僕の気持ちは変わりました。そのCMの内容は、長時間の運転で疲れていた男性が、目の前の横断歩道を渡った小学生の男の子におじぎをされ、その男性の他にも止まっていた運転手のみんなが気持ちよくなったというものでした。そのCMを見たとき、「自分は、なんて失礼なことをしていたのだろう」と初めて気が付きました。
 小学校の六年間、当たり前のようにやってきたことを、友達の一言でぱったりとやめてしまったことに、少し後悔をしました。
 だからこれからは、止まって下さった運転手さんに、お礼の気持ちをこめたおじぎをしようと思いました。
 みなさんも恥ずかしいかもしれませんが、止まって下さった運転手の方に対しておじぎをしてみて下さい。やって損はないと思います。

尾原分校と地域の優しさ
岡山県 郷内中学校 二年 藤原夢乃

 私の住んでいる地域は、緑いっぱいの自然に囲まれています。山も多く、川もあります。その川にはホタルが住んでおり、夏はきれいです。
 そんな田舎にも、学校があります。尾原分校という小さな学校です。私は、小学一年生から三年生までを、その分校で過ごしました。
 分校に通う人数は、三年生までしかいないこともあり、十人程度でした。同学年の子は二人で、少し寂しい気もしますが、人数が少ないという点を活かした分校ならではの行事が、たくさんありました。
 ふつう一ヶ月に一度、参観日があります。しかし、分校ではそのほとんどが行事になります。スポーツ集会や朗読会、お飾りづくり、おもちを焼く会など様々です。
 そして、いつも行事に参加してくれる人が、地域の方です。忙しいにもかかわらず、お飾りの作り方を自主的に教えて下さったり、発表会などにも毎回たくさんの人が来てくれました。なので、行事がおおいに盛り上がります。
 あるとき、地域調べということで、先生と同級生二人と一緒に、校外を歩いていました。すると、私の祖父がいました。近くに井戸の神様がまつられており、興味を持った私たちは、祖父に色々と話を聞きました。祖父宅にはたくさんの神様がまつられているということで、私たちを快く招待してくれました。
 他にも、昔から住んでいる歴史ある家の見学をさせてくれる人もいれば、七輪の使い方や昔の遊びなどを教えてくれる方もいました。これもすべて、私たち分校生徒のためにやってくれていて、自分から教えますと言ってくれる方が多いです。
 なので、他校と違って、普段体験できないようなことをたくさん経験できました。道を歩くと、
 「学芸会よかったよ。」
と声もかけてくれます。こんなにうれしいことは、ありません。すべては、地域の方の親切な心を、私たちにむけてくださったからだと思います。とても感謝しています。
 そんな恵まれた環境にある尾原分校は今、休校中です。にぎやかだった教室も、人が集まる運動場も静かになりました。私も中学生なので忙しく、地域の方との交流がありません。分校の前を通っても、生徒や先生の姿が無いのが残念です。
 でも、私が地域の方や先生方にもらった優しさを、忘れることはありません。だから、またいつの日か、尾原分校ににぎやかな毎日が戻ったら、地域に住む一人として役に立とう、と思います。

友達のいるありがたさ
岡山県 総社西中学校 二年 矢田部成介

 「鍵がついていない……。」
 それは、昨年の秋のことだった。部活の遠征から帰って、学校に着いた僕は、自分の自転車を見て思わずそう言った。
 先生に言って、先生と数人の友達と十分間程探したが、時刻は夜の七時を回っていたため、辺りは真っ暗で、結局見つからなかった。探してくれた先生と友達に、
 「ありがとう。」
と言って、みんなと別れた。「ハアー。」と、ため息をつきながら一人で道路を歩いていた。「ああ、鍵をかけとけばよかったなあ。」と、独り言を言っていると、後ろからチリン、チリンと音がした。振り向くと、二人の友達がいた。そして、
 「家まで一緒に帰ってあげるよ。」
と言ってくれた。嬉しかった。でも、それは悪いと思った僕は、
 「いいって、どうせ十五分位だし。」
と言った。本当は一緒に帰りたかったけれど、片方の友達の家は、僕の家の方向とは真逆だし、もう一人の友達の家も、僕の家から結構離れていたからしょうがなかった。すると、友達は笑って言った。
 「友達なんじゃけえ、こういうときに家まで一緒に帰るぐらい、当たり前じゃろう。」
 すごく嬉しかった。「友達」というい言葉に、すごく重みを感じた。いつもは簡単に使っているこの言葉も、このときの僕にとっては、いつもの一〇〇倍位重みのある言葉だった。
 このとき、僕は改めて思った。友達がいるということが、どれだけすばらしいことなのかを。僕は、真剣に言うのは照れくさかったけれど、
 「ありがとう。」
と言って、三人で僕の家へ向かった。ゆっくりと、ゆっくりと。
 三人で帰ると、時間が経つのが早く感じた。あと数分で家に着く。いつもの何気ない会話を交わしながらも、僕は二人のぬくもりを感じていた。
 家に着いた。僕たちはいつも通り、
 「じゃあ、バイバイ。」
と言って、別れた。僕は、あのときの「友達だから」という言葉を、一生忘れない。「親切」というのは、人を助けるのはもちろん、友情も深めてくれるものだということを知った。
 僕は、この二人の友達のことを一生忘れないだろう。そして、もう一度言いたい。「ありがとう」。

今度こそ
広島県 高宮中学校 二年 元村紗由

 みなさんは、町で重そうな荷物を持って歩いているお年寄りの方を、見たことはありますか。
 学校帰りのと中、おばあさんが重そうな野菜をたくさんかかえて歩いておられました。私はそのとき、自転車に乗っていたので、今自転車に乗っているから手伝えないなどと決めつけて、おばあさんの横を素通りしました。
 すると、私とすれ違いで自転車に乗っていた若い女の人が、おばあさんに向かって、
 「重いでしょう?持ちますよ。」
 そう声をかけていました。私は、自転車に乗っているからとそれを理由にして、ただ面倒だっただけじゃないかな、と思いました。
 おばあさんは、とてもうれしそうでした。私はその顔を見て、自分もおばあさんをあんな顔にさせてあげたい。今度こそ、おばあさんを笑顔にさせる!そう思いました。
 次の日から私は、困っている人はいないか、助けて欲しい人はいないかと思い、見回ってみましたが、そう思ったとおりにはいきませんでした。しかし、ある日、いつものように下校していると、きょろきょろとあたりを見回しているおばあさんがいました。私は、思いきって声をかけました。
 「おばあさん、どうされましたか?」
 そう言うと、おばあさんは、
 「ここに行くには、どうすりゃいいんかね。」
と、困った様子で聞いてこられました。運よく私はその場所を知っていたので、一緒にその場所まで案内してあげました。おばあさんは、最後にとびっきりの笑顔で、
 「ありがとう。」
と言ってくれました。私は、本当に本当にうれしかったです。最初、すぐに自分の心の中で理由を作って無視していた自分とは、さよなら出来たと思いました。
 私は、親切は人を変えられるんだなあ、と思いました。きっとあのとき、若い女の人がいなければ、困った人を助けてあげようなんて思わなかったし、おばあさんの笑顔がなければ、あんなにうれしいとは思わなかったと思います。
 今どきの若い人は、電車やバスなどで席をゆずらなかったり、昔の私みたいに、困っている人を無視する人がたくさんいます。そんなことは、やめましょう!一人一人が一つでも多くの小さな親切をすることで、救われる人はたくさんいます。
 私はこれから、一つでも多く親切を出来るようがんばります。

ぼくにしか出来ないこと
山口県 柳井西中学校 一年 木村亮斗

 ぼくの家に父はいません。母とぼくたち三人兄弟の四人家族です。母は家族のために毎日、頑張って働いています。仕事でつかれて帰ってきても、ご飯の支たく、洗たく、お風呂掃除、片付けなどで大変です。一生懸命な母の姿を見て、ぼくに出来ることはないか考えてみました。
 ありました!前に祖母の家に泊まりに行ったときに、お風呂掃除をして、祖母が喜んでくれました。母が帰ってくる前に、ぼくはお風呂掃除をしました。母の笑顔が見たくて、ゴシゴシきれいにしました。
 仕事から帰って来た母の第一声は、
 「玄関にかばんを置きっぱなしは誰?」
と、怒りの声でした。ぼくのかばんです。ぼくは母の喜ぶ顔が見たくて、かばんを片付けるのを忘れて、お風呂掃除に夢中になっていました。「せっかくお風呂掃除を頑張ったのに。」って、少し悲しくなりました。
 しばらくして母が、
 「お風呂掃除してくれてありがとう。すっごいうれしいよ。」
と、ぼくが見たかった笑顔で言ってくれました。
 その日からぼくは、毎日お風呂掃除をしています。部活動でつかれていても、必ずやります。家族のために頑張って働いている母のために、ぼくができる小さなお手伝いだけど、母の笑顔が見たいから、これからも頑張って続けていきたいです。
 少し前から小学五年生の弟が洗たく物をとりこむようになりました。母からたのまれたわけでもなく、ぼくが言ったわけでもありません。自分からすすんで入れるようになりました。母はぼくのときと同じように、弟をほめていました。ぼくはそれを見て、うれしくて仕方ありませんでした。
 母はぼくを呼んで、ぼくが風呂掃除をするのを弟が見ていて、弟も出来ることをさがしてやり始めたのだから、ぼくのおかげって言い、「ありがとう。」と涙ぐんでいました。
 ぼくに出来ること、ぼくにしか出来ないこと、小さなお手伝いだけど、喜んでくれる人がいます。喜んでくれる人がいるだけで、ぼくもうれしくなります。
 今度、祖母の家に泊まりに行ったとき、お風呂掃除をして、祖母の喜ぶ顔がまた見たいです。

第36回「小さな親切」作文コンクール入賞・入選作品-12

入賞【中学生の部】

妹からの金メダル
長野県 岡谷西部中学校 二年 小林ひかり

 私は小さいころから、走ることが大好きだった。体が一瞬宙に舞い上がる感覚が好きで、走り続ければ空も飛べるのではないか、と思っていたほどだ。
 小学校四年生のときに地元の陸上クラブに入り、中学二年の今も陸上を続けている。数々の大会に出場し賞状やメダルをもらったが、一番大切にしているのは、妹にもらった金メダルだ。今も時々眺めては、当時のことを思い出したり、元気をもらったりしている。
 小学校のとき入っていた陸上クラブで、私と彼女はライバルだった。練習もいつも一緒で、記録も競っていた。
 「ひかりには絶対負けない。」
とはっきり言う彼女に対し、私は友達と戦うことに罪悪感みたいなものを感じていた。
 小学校六年生、全国大会をかけた春の県大会八十メートルハードル決勝。私と彼女は、同じスタートラインについていた。スタートの号砲と共に、必死でゴールを目指した。優勝したのは、彼女。私は0.02秒差で二着だった。「お前は、心が弱いから負けたんだ。」と言う監督の声が、頭の中でぐるぐる回っていた。
 優勝した彼女に、「おめでとう」と言えなかった嫌な私。妬み、羨望、諦め、そんな気持ちがのっぺりと体の中全部を埋め尽くし、私はそのまま陸上クラブを辞めてしまった。
 無気力なまま何ヶ月も過ごしたある日、妹からもらったのが、この金メダルだ。小学校一年生だった妹が、習いたての精一杯の字で「小林ひかりさま。あなたはすごいです。あなたはわたしのほしです。ありがとう」と書いてあった。
 金メダルを首にかけてもらった私は、涙が止まらなかった。恥ずかしさも忘れ嗚咽する私を、妹はただ黙って側に居てくれた。そのとき、全てが吹っ切れたような気がした。闘う相手は友でもライバルでもなく自分自身なのだ。考えるのはやめて、自分のために走ろう。私は、走ることが好きなのだ。そして、私は中学に入って、陸上部に入部した。
 私と五つ違いの妹は、生まれつき心臓が悪く、産院の先生に、「この子は新生児期を乗り越えられるか分かりません。」と言われていた。入退院を繰り返す妹と、泣いてばかりの母を見て、まだ小さかった私も、妹は死んでしまうのではないかと悲しかった。
 手術を繰り返し病気に勝った妹は、今、三年生になる。体が弱く人並みに運動は出来ないが、元気に学校へ通っている。「お姉ちゃんは、すごく足が速いんだよ。」といつも自慢してくれていて、照れ臭くもあり、うれしくもある。体調が悪くても、私が出場する大会には必ず来てくれ、スタンドの一番前で手を振って応援してくれる。
 そんな妹が、私の心の支えであり、励みでもある。何があっても走り続けよう。自分のために、そして妹のためにも。私は、これからも妹からの金メダルを胸に、スタートラインに立ち続けようと思う。

「親切」の正体
静岡県 西奈中学校 一年 遠藤豪人

 お金をはらってバスから降りようとしたら、運転手さんに大きな声で、
 「ちょっと待って。」
と呼び止められた。その後すぐに、若い人が乗ったバイクが目の前を走っていった。呼び止められていなかったら、危うくバイクにひかれるところだった。
 家には、同居している八十才のおばあちゃんがいる。おばあちゃんは耳が少し悪くて、聞こえにくかったり、時々足が痛くなったりする。そんなおばあちゃんが、最近してもらった「親切」で一番うれしかったのが、この出来事だそうだ。
 ぼくは、お客さんの安全を第一に考え、呼びかけのできるその運転手さんがすごい、と思った。それにくらべ、バスがバス亭に止まっているときに横を通っちゃいけないのに、通りぬけていったバイクの人の考えが分からない。おばあちゃんは、若い人が席を譲ってくれるのも嬉しいそうだ。
 ぼくが、おばあちゃんにしてあげた「親切」で、一番うれしかったことについて聞いてみた。そうしたら、おばあちゃんは、
 「毎日してもらっていて数えきれないほどあるから、決めるのは難しいよ。」
と言っていた。
 でも、その中でもうれしいのは、いつも「おはよう」とか「行ってきます」「ただいま」など声を掛けてくれて、いつも大切にしてくれることだそうだ。
 それと、転んで足を痛めたときに、一人でお風呂に入るのが大変だったので、いっしょにお風呂に入ってくれたこともうれしかったそうだ。このことは頼まれてやったことだけれど、毎日声をかけることはいつも何気なくやっているので、喜ばれているとは思っていなかった。
 おばあちゃんはそれに加えて、雨が降ってくると、すぐに洗たく物を家の中に取り込んでくれたり、ごみ出しをしてくれるのもうれしいそうだ。
 じゃあ、「親切」って一体何?と考えた。お母さんは、
 「日常生活の中で、何気なくしていることでも、相手の人に『ありがとう』と思ってもらえることが、『親切』じゃないかな」
と言っていた。
 ぼくは、何気なく毎日していることでも、少し見方を変えてみれば「親切」になるから、「思いやりの心」が「親切」だと思う。ぼくはこれから、もっと「親切」を広げていけるように、どんなことにも「思いやりの心」を持ってやりとげたい。
 おばあちゃんは時々、
「今はまだ元気で、一人でいろんなことができるので、家にいられることが幸せ。いっしょに住んでくれているだけで、ありがたい。」
と言っている。
 そばにいて、「思いやりの心」を持って大切にしてあげることが、本当の「親切」だと思う。

親切と優しさ
静岡県 大富中学校 三年 石原佑美

 親切って何だろう。それは、人に優しくすること。少し前まではそう思っていました。でもある日、その考えに疑問を持ちました。
 「あの子は親に優しくされすぎて、気の毒だね。いつか困ると思うよ。」
 その会話を聞いたとき、小さい男の子と母親が近くにいました。「優しさに、度が過ぎるなんてあるのかな」、そう思ったけれど、その後の言葉でその意味が分かりました。
 「教育は、優しくするだけではないよね。叱るときに叱らなければ、その子の為にならないし、それは優しさとは言えないと思うんだ。」
 これから、私は「優しさって何だろう、親切って何だろう。」と考えるようになりました。
 夏休み、私はAED講習会に参加しました。そこで、私は「親切」と「優しさ」について、はっきりとしたものを感じました。それは、隣のチームを教えて下さっていた方の行動と言葉です。その方は、とても熱心な方でした。そして、一生懸命に教えている姿が印象的でした。
 講習会は進み、重要な心臓マッサージについて教わりました。そのときです。
 「もっと強く!力を入れて!」
 部屋中に響く声。他チームも、その声のする方を向きます。隣チームの講師さんです。
 「もっとしっかりやろうよ、ねぇ!」
 そんな声が、ずっとしていました。怖いな、嫌だな、という顔をしている人もいました。そして、すべての項目を終え、最後のあいさつの時、講師の方は言いました。
 「厳しい言い方をして申し訳なかったです。けれど、それだけ私たちは真剣なのです。一人でも多くの人を救えるのが、この心臓マッサージであり、みなさんの働きかけです。でも、それがもしいいかげんなものであったり、完全なものでなかったならば、その人を救えないかもしれません。そうしたときを、私たちは何度も経験しています。だからこそ、みなさんにも同じ思いをしてほしくない、そう思います。だから厳しくしてしまいましたが、嫌われたり、怖がられることなんて、人の命が助からないことと比べたら、なんとも思いません。」
 私はその言葉に感動し、その方がとてもかっこいいなと思いました。厳しくすることで、意識をもってもらうことが人を救うことであり、その人や周りの人、助けた人の幸せや喜びになる。そのためなら、嫌われたって、怖がられたっていい。
 私は、これこそ「親切」であり「優しさ」だと思います。そして、この講習で、あの母親の「優しさ」は「親切」ではないんだと、はっきり分かりました。
 私は身の周りの人を見ることで、「親切」について考え、学びました。これから、自分もみんなも幸せに暮らしていくために、もっと「親切」を深めたいと思います。

笑顔の花
福井県 金津中学校 一年 山下慎一

 冬のことだ。一晩でたくさんの雪が降り、記録的な大雪となった。そのため、交通網は大幅に乱れ、学校も多数休校になった。
 朝、僕が目覚めると、窓の外は一面銀世界。外へ出てみると、三十センチ以上の雪が吹きだまっていた。除雪車も、まだ通っていない。毎朝早い新聞屋も、配達した様子がみられない。あまりの積雪に、僕はあ然とした。
 そのときだ。僕の顔が見えたのか、祖母が、
 「早く雪かき手伝って!」
とさけんでいた。あまり気が乗らない僕だったが、除雪作業を手伝うことにした。
 僕は、このような本格的な除雪を行うのは初めてだ。最初は、快調なペースで飛ばしていたが、思っていたよりもかなり重労働だった。北陸の雪は、湿気が多くて重いのが特徴だ。ずっしりと重い雪が果てしなく続き、スコップでの作業は、なかなかはかどらなかった。時折、吹雪に見舞われ何度も中断した。   
 何とか二時間余り、家の前だけだったが、除雪することができた。そのとき、僕は思った。「この雪では、おじいちゃん、きっと困っているだろうな……」。
 僕の隣の家には、九十二歳の老人が住んでいる。奥さんは入院中で、ずっと一人暮らしなのだ。僕は、隣の家のおじいちゃんのことが無性に心配になった。そこで僕は、隣の家の除雪をしよう、と家族に協力を求めた。みんな快く賛成してくれた。
 案の定、隣の家の玄関は、雪に埋もれていた。家の玄関から道路までは、かなり距離がある。僕は、これまでの慣れない作業でとても疲れていたが、一生懸命頑張って除雪した。しばらくすると、おじいちゃんは、僕たちが除雪しているのに気付き、慌てて外に出て来た。
 「すまんの。ありがとの。」
と、おじいちゃんは何度も頭を下げた。
 この雪を、老人一人で除雪するのは至難の業だ。こんなときこそ、近くの僕らが率先して協力すべきだと思った。
 しかし、長時間の除雪は、初心者の僕にはかなりきつかった。その中で、僕が頑張れたのは、恐らくおじいちゃんの感謝の言葉があったからだろう。こんな僕でも役立っているのだと思うと、何故だか心が温かくなり、嬉しかった。    
 僕は、この作業が終わると、人のために役立てたという満足感、仕事をやりとげた達成感でいっぱいだった。何ともいえないすがすがしい気分だった。
 僕は、この気持ちをいつまでも忘れず、これからも率先して「小さな親切運動」に、努めていきたいと思う。また、この運動の輪がもっともっと大きく広がり、住みよい社会になっていくことを心から願う。
 「笑顔の花が、たくさん咲きますように……」。

私たちにできること
三重県 桔梗が丘中学校 一年 田中 駿

 三月十一日に起こった、東日本大震災。多くの人々が津波にのまれ命を落とし、家や家財を失い、不自由な生活をしている。そんなニュースを連日聞き、私にも何かできることはないのか、と思っていました。
 そんなとき、私の母がインターネットで見つけたサイトの取り組みで、「被災した子どもたちに、ランドセルを届けよう」というものがありました。
 私はこのサイトを見て、これなら自分にできることだと思い、すぐにランドセルを送ることを決めました。さらに、私の友達にも声をかけ、その兄弟にも協力してもらい、合計で五個のランドセルを用意することができるようになったのです。
 しかし、そう決めてから送るまでの二日間に、いろいろな思いが頭の中をめぐっていました。買ってもらったときは、大きかったランドセル。小学校六年間のいろいろな思い出がつまったランドセルだと思うと、自分から離れてしまうことにさびしさを感じました。
 でも、やっぱり私のランドセルを喜んで使ってくれる人がいるなら使ってもらいたいという気持ちの方が強く、送ることを決心しました。私は、ランドセルと一緒に手紙を送りました。

「このランドセルを受け取った人へ
このランドセルは、僕が六年間大切に使ったランドセルです。
僕はもう使わないので、使って下さい。一緒に頑張っていきましょう。
三重県人より」

 そう書いて、ランドセルとともに送りました。
 東北地方に、何故あんな地震がおそったのか、それは誰にも分かりません。けれども、あの震災があってから、日本中の人が一つになって被災した人々を応援するようになり、一人一人の結び付きが強くなったのではないかと思います。そうした中で、何かできることはないかとみんなが考えるきっかけが作られ、こうして私も、ほんのわずかだけれど被災者の方々に向けて支援ができてよかった、と思います。
 これから被災者の方には、まだまだ楽ではない道のりが待っているかと思われます。けれども、私たち被災地以外の人間はそれを見ているだけでなく、小さな小さな自分にできるだけの親切の心を持って、被災地の方が以前の暮らしを取り戻すまで、長い期間手を差し伸べていくことが必要だと思います。
 一人一人の力は小さくても、復興へ向けて日本中の人が協力していく気持ちを持てば、大きな力になることと思います。一日も早く平和な生活を取り戻せるように、私たちに何ができるのかをこれからも考えていこうと思います。

デリバリー給食
三重県 朝明中学校 二年 服部 唯

 私は普段、車いすで生活しています。
 中学校生活の中で、給食の時間があります。みんなが大好きな時間ですね。でも、私はそんな給食の時間が、とても不安でした。
 なぜなら、私はデリバリー給食をたのんでいて、クラスの友達が給食を教室まで運んできてくれます。その給食は、いつも教卓の上においてあり、私の高さからは取れません。だから、いつも私は、今日はどうやって取ればいいか、そのことばかりを考えていて、授業に集中できなかったときもありました。
 そんな中、いつもどうりに不安をかかえながら教卓に近づくと、同じクラスの友達が、何も言わずに私の注文した給食を確かめて、取ってくれました。すごく嬉しかったです。
 私は勇気を出して、その友達に言いました。
 「私の机まで、運んでもらっていいかな。」
 すると、その友達が、
 「うん、いいよ。」
と言って、机においてくれました。
 「ありがとう。」
と言うと、その友達は、
 「どういたしまして。」
と言ってくれました。
 それから私は、周りにいるクラスの友達に、「○○ちゃん、私の給食、取ってもらってもいいかな。」と聞くと、みんな「いいよ。」と返事をしてくれます。もちろん、「ありがとう」の言葉は忘れません。
 今では、給食の時間が大好きになりました。今は、「ありがとう」ばかり言っているけれど、私もがんばります。
 「どういたしまして」が言えるように。

親切の種まき
京都府 洛南高等学校附属中学校 一年 西海彰真

 「あっ、しまった。」
 気がついたときには、遅かった。車窓の外は知らない景色。小五の夏の出来事である。
 隣の市に住む伯母の家まで、初めての一人旅。馴染みの駅からバスに乗り、最初のうちこそ緊張していたが、前の晩遅くまで起きていたせいで睡魔には勝てず、気づいたときには、降りる予定のバス亭をはるかに過ぎていた。(どうしよう、どうしよう……)、どきどきして冷や汗が出た。お金も十分に持っていないし、携帯電話があるわけでもない。
 どきどきが延々続き、時計の短針が十周くらいしたと感じた頃、終点のバス亭に着いた。乗客が全員降りるのを待ち、運転者さんに正直に話した。眠ってしまったこと、乗り過ごしたこと、どうしたらいいのか分からないこと。
 伊藤さんというその運転手さんは、にっこり笑い、こう言った。
 「運賃はいらんよ。今度は三番乗り場から乗って、八番目の停留所で降りたらええよ。おっちゃんも、同じことしたことがあるわ。分かる、分かる。今度はきちんと起きときや。」
 そして、ペットボトルに入ったジュースを差し出してくれて、こう言った。
 「心細かったやろ?これでも飲んで、肩の力抜き。」
 「いえ、いいです。これ運転手さんのでしょ?」
と、遠慮する僕に対して、
 「それ、おっちゃんもさっきもろてん。取っとき。」
と優しい言葉。
 「ありがとうございます。でも、僕が悪かったんやから、お金は払います。」
と言ったところ
 「かまへんよ。もし、自分の周りで困っている人がいたら、今日のこと思い出して、同じように親切にしてあげたらええねん。」
 「ありがとうございます!分かりました。」
 僕はペットボトルのジュースをもらって、最敬礼してバスを降りた。
 その数十分後、僕は伊藤さんが教えてくれた通りのバスに乗り、無事に伯母の家にたどり着くことができた。
 あれから二年。バスに乗るたびに伊藤さんを思い出し、心が温かくなる。周囲の人たちにも、自然に気持ちを向けている自分に気づく。以前受けた小さな親切が、ずっと僕の心の中に生きている。人の心って、そんなものだ。
 伊藤さんからもらった親切の種が、僕の中で成長しているように感じる。僕も伊藤さんのように、ごく自然体で世の中に親切の種を蒔いていけたらいいなぁ、と思う。

たっちゃんが教えてくれたもの
京都府 京都女子中学校 三年 中川あかり

 私がまだ小学校低学年のころ、祖父母が商売をしていた関係で、私は「お手伝い」として、お店番をしていた。それは、お客さんが来たら祖父母に伝えるという仕事で、客待ちで暇なときには店の前に立ち、通りを行き交う車や自転車、人の流れを見るのが楽しみの一つだった。
 そんな風景の中、毎日のように目に飛び込んでくる、一人の男の人の存在に気がついた。その方は、目がギョロッと大きく、頭は丸坊主、いつも遠目当たりの細い路地からいきなり現れては、通りの真ん中に立ち、行く先を定め、ヒョイヒョイと跳ぶように歩き、私の顔を見ると、
 「おはよ。」
と言って、通り過ぎるのだった。そんな様子に日々接しながら、全く話したこともない人だったが、私の中では「不思議なおじさん」と、知らないがよく知っている存在となっていた。
 そんなある日、祖父に連れられ、作業所というところを訪れた。すると突然、目の前をどこか見覚えのあるヒョイヒョイと跳ぶ人影が横切った。一瞬目を疑ったが、すぐにそれが毎日通りで見かける「不思議なおじさん」だと分かり、思わず「あっ!」とつぶやいた。
 すると祖父が、
 「たっちゃん、元気か。」
と、不思議なおじさんに声をかけた。「たっちゃんっていう名前なんや」。驚く私に、祖父は、
 「たっちゃんは障害があるけれど、働き者やで。」
と言った。
 この出来事を境に、これまで謎だった「不思議なおじさん」の存在は、「たっちゃん」「障害」「働き者」「おはよ」という言葉によってつながり、身近に感じるようになった。
 ところがしばらくしたころ、たっちゃんの姿を見かけなくなったことに、ふと気がついた。
 「最近、たっちゃんみかけへんね。」
と祖父にたずねてみると、
 「あ~、たっちゃん、死んだんや。かわいそうになぁ。」
と言った。「えっ、たっちゃん、死んだんや」。話したこともない、「おはよ」と声をかけられるだけの間柄だったが、見慣れた風景の中からたっちゃんの姿が消えたことは、妙に寂しく、ぽっかり穴が開いた記憶がある。
 思えば、たっちゃんは、私が何となく通りを見ている日も、友達とけんかをして怒っている日も、母に叱られてしょげている日も、どんな日も変わらず、「おはよ」と声をかけてくれていた。
 私はそのたっちゃんの一言で、心穏やかになっていたような気がする。たっちゃんに、私を励ます気持ちがあったかどうかは、今となっては分からないが、私はたっちゃんの優しさを、幼い気持ちながら感じていた。
 人は、いろんな人と出会う中で、してあげたり、してもらったりしながら、「優しさ」や「勇気」が育まれるものなのかもしれない。私は、幼少の頃の記憶、たっちゃんに、そのことを教えてもらった。
 今度は、私がする番だ。

第36回「小さな親切」作文コンクール入賞・入選作品-11

入賞【中学生の部】

靴をそろえる気持ちから
東京都 東京学芸大学附属国際中等教育学校 二年 神尾恵美

 「竜退治の騎士になりたければ、あなたが用をすませてトイレから出るとき、あな
  たのはいたスリッパはもちろん、すべてのスリッパを、つぎにつかう人がはきや
  すい向きに、きちんとそろえるのです。」

 「小さな親切」とはどういうことか……いろいろ考えていたとき、私はふと、以前に読んだ本『竜退治の騎士になる方法』(岡田淳作)に、こんなセリフがあったことを思い出した。
竜とは、とげとげしたり、よそよそしかったりする、人々の心の象徴として登場する。夢のような世界で、竜を退治した騎士が言った言葉だ。スリッパをそろえながら、人の気持ちになって考えてみることが、とげとげした気持ちをなくしていくのではないか、と強く心に残る物語だった。
 「小さな親切」とは、相手の気持ちや状況をちょっと考えてみたときに、その人のためにやってあげられる心遣い、そして、それは人とのつながりの中で、みんなが心温かくなることだと思う。
 夏休みに、部屋の改装をするために、家に大工さんが来ていた。さまざまな道具や材料を手にかかえてくる大工さんは、靴をそろえることが困難である。そういうとき、母はいつも大工さんの靴をそろえ、次にはきやすいようにしていた。私は、靴が逆向きになっていることすら、気づいてなかったのに、母はそれに気づき、向きを直す心遣いをしていた。
 私は、自分の脱いだ靴でさえも、そろえることをよく忘れる。家に上がるとき、早く休みたいし、手もふさがっているし、つい忘れてしまう。気づくときもあるけれど、「面倒くさい」「また今度、気をつければいい」という気持ちに、負けてしまうのだ。翌朝、そろっている靴を何気なくはいて、学校に行っていたことに、私は気づいた。
 また、いざ親切をしたいと思っても、勇気がなく、人の目が気になることがある。電車で、お年寄りに座席をゆずろうか……、行動できないでいたとき、前に座っていた若い男の人がさっと立って、さりげなく席をゆずっていたことに感動したことがあった。
 なぜ、あんなにさりげなく自然にできるのだろうと、その人をしばらく見ていた。周りの空気が和やかになった感じがした。「親切をする」というのは、まず、自分の心を開く勇気がいるのだと思う。
 次の人が使いやすいようにスリッパや靴をそろえるということは、後から使う人の気持ちを考えること。その思いやりや気持ちは、「小さな親切」の心のひとつだと思う。家族しかいない我が家で、靴やスリッパをそろえられないなら、もっと大勢の人の目があるところで、親切はできない。
 まず、自分の靴、そして家の玄関にある靴をそろえることから、「小さな親切」をしていこう、と思う。

受け継いでいく「親切」
千葉県 専修大学松戸中学校 一年 赤石玲子

 「すいませんねえ。つつじ祭りに行きたいんだけど、根津神社ってどう行けばいいのかしら。」
 「私もちょうどそっちまで行くので、一緒に行きませんか。」
 「あら、ありがとう。」
 それは、私が小学校六年生のときのことでした。私の家の近くにある根津神社はつつじの名所で、つつじ祭りの季節になると、近隣からたくさんの見物人が訪れます。この日出会った人たちも、そういった観光客らしく、手に観光マップを持ってウロウロしていました。根津神社に向かう五分程の道を、二人のおばさんと話しながら歩いて行きました。
 神社の門の前でお礼を言われ、別れた私の背中ごしに、こんな言葉が聞こえてきました。
 「今どき珍しい、いい子ねえ。」
 そのときは、ほめられたことが嬉しく、親切にしてよかった、と思いました。しかし、だんだんと引っかかってきました。「今どき珍しい」って、さっきの行為は珍しいことなのでしょうか。自分では、ごく普通のことだと思っていたのに。
 「今どきの子」は、こんなちょっとしたこともできない、と思われているのだろうかと、何だか憂鬱になってきてしまいました。
 でも仮に、あの人たちが、若い人にあまり親切な行為を受けたことがないのだとしても、若い人に親切な心がないわけではない、と思います。単に、年上の人と話すのに、なれていないのではないか、と思います。
 最近はマンション住まいの人が増えて、ご近所とか町内会とか、そういうつきあいがあまりなくなって、人と話す機会が減ったのも関係しているのではないか、と私は思います。しかし、気持ちがあっても行動を起こさなければ、誰にもその心は分かりません。
 東日本大震災をきっかけに、忘れかけていた日本人の優しさがとり戻されつつある、とよく言われています。被災地における譲り合いの精神や、ボランティアにかけつける人の多さにも、それは表れています。
 そのボランティアでは、若い人たち、そう「今どき」の人たちも、大いに活躍しているのです。世界中から脚光を浴びた「親切な日本人」の伝統は、若い世代にもちゃんと受け継がれているのです。
 いざとなれば行動に起こせる潜在能力を持っているのだから、日頃ちょっとしたことを、少しの勇気を持って始めてみるのがいい、と思います。その、小さな親切の積み重ねが、やがて日本を大きな優しさで包むことになる、と思います。

小さな力を大きな力に
千葉県 第五中学校 一年 国分麗奈

 私は、友達とショッピングモールに来ていた。二階に友達が、一階の食品売り場に私がいて、いつものように買い物をしていた。レジはとても混んでいて、早く早く、と、友達のいる二階へ早く行きたかった。
 やっと自分の番だ、と思ったが、前にいるおじさんが、お金が足りなかったらしく、店員と買わない物を決めていた。しかし、私は変だ、と思った。なぜなら、おじさんのお財布の中に、五千円札が残っていたからだ。
 どうしてお金は足りるのに、買いたかった物を取り消したのだろう。友達のことも忘れ、自分の番がやっときたのに、私はじっとおじさんを見ていた。後ろから見ると、そのおじさんは髪がうすく、真っ白で、背中は曲がっていて、ご年配の方だった。
 「お客さん、お客さん。」
 ボーッとしていた私は、店員のレジのお姉さんに呼ばれ、お金をはらい、買い物カゴを持ち、おじさんの横にカゴを置いた。さっきのことが気になって、ついついおじさんを見てしまう。
 袋に買い物をした物を入れ終るころ、おじさんは、まだ買い物した物を袋に入れていた。私より買い物の量が少ないのに。おじさんは、お財布をポケットから取り出した。何をするのかと見ていたら、お財布から五千円札を取り出し、おじさんの目の前に置いてあった募金箱に入れた。
 すると、おじさんは、私が見ていることに気付き、
 「この五千円札、家や家族のいない人たちのために、使われるんだよ。」
と言い、ほほ笑んで帰って行った。
 おじさんは弱々しく、ゆっくり歩いていたが、私は、周りを気にせず募金箱を見た。募金箱には、「東北地方太平洋沖地震義援金」と書いてあった。よく見ると、千円札は数枚入っていたが、五千円札は、おじさんのだけが入っていた。
 くしゃくしゃの五千円札だったが、すごい、と思った。おじさんは、買いたい物をがまんしてまで、募金した。あのおじさんが、すごくかっこよく思えた。
 私は、おじさんを見て、いろいろなことに気付かされた。この地震で何もかもなくなった人たち、生きている意味がないと思う人たち、家族をなくして絶望してしまった人たちがいる。私たち日本人が、一人一円寄付をすれば一億円、一人百円をきふすれば百億円もの義援金を送ることができる。
 だから、皆も考えてほしい。今自分たちが、一人一人出来ること、募金、節電、寄付などたくさんある。一人一人がやれば、大きな力になる。自分が、日本人の大切な一人であることを、忘れないでほしい。
 小さな力を、大きな力に。

思い合い、支え合うこと
神奈川県 柿生中学校 一年 大薗涼音

 私は、「小さな親切」というテーマを聞いて、兄のことが思い浮かびました。
私の兄は病気をしていて、車イスを使っています。私も、兄の車イスを押して、よく一緒に出かけます。すると、いろいろ困ったことや、周りに迷惑になってしまう場面があります。
 例えば、道を歩いているときも、そんなに速くは押せないし、幅があるので歩道をふさいでしまうようなこともあります。エレベーターや電車でも場所をとるので、混んでいるときなど、申し訳ないと思います。
 少しの段差でも通れないし、狭い入り口も通れません。いつものことですし、慣れているつもりでも、兄と出かけるときは、それなりの覚悟がいります。私は、周りの人から見て、車イスは迷惑に思われても仕方がないと感じます。
 ところが、親切に声をかけてくれる人もたくさんいます。道を開けてくれたり、エレベーターに乗るとき、少しずれてくれたり、「開」のボタンを押し続けてくれる人もいます。お店に入るときなど、ドアを押さえてくれたり、電車で場所を開けてくれたり、席をずれてくれたりします。階段で、「大丈夫ですか?」と、声をかけられたこともありました。
 どの人も、自分の出来ることをしてくれていると思います。いかにも、してやっているみたいな態度だと、こちらも嫌な気持ちになってしまうと思います。けれど、どの人も自然体で、本当に心から親切にしてくれていると感じるので、素直にありがとうございます、という気持ちになります。「小さな親切」とは、こういうことではないのでしょうか。
 何かしなくちゃいけないと思うと、そのことばかりが気になって、何をしたらいいか分からなくなってしまいそうです。何かしようと構えるのではなく、そのとき自分が出来ることをすれば良いのだ、と思います。
 そうはいっても、知らない人に声をかけるのは勇気がいるし、友達でも余計なお世話と思われるのは嫌だし、と色々頭の中で考えてしまいます。でも、親切にしてもらって嬉しい気持ちはよく分かるので、自分に出来ることから少しずつやっていきたい、と思います。
 実は先日、学校の帰り道、荷物を持ったお年寄りを見かけました。私は、そのとき少しでも運べればと思い、勇気を出して声をかけました。その人は明るく、
 「大丈夫。ぼちぼち行きますから。ありがとう。」
と言ってくれました。私は、ありがとうと言われ、とても嬉しかったです。声をかけて良かったな、と思いました。
 「小さな親切」とは、相手を思い合う優しい気持ちから始まる、と思います。私は、障害のある人もない人も、お年寄りも小さな子も、みんなが相手を思い合い、支え合って生きていける世の中が良い、と思います。

周りを温かくする親切
新潟県 宮内中学校 二年 穂苅 茜

 母と買い物に行ったときのことです。お店の近くの横断歩道を渡り終わろうとしたとき、私の後から、
 「どうした。大丈夫?」
という声が聞こえてきました。後ろを振り返ると、男性が道路の真ん中を見ていました。その人の視線の先を見ると、若い女性が一人、車を押していたのです。声をかけた男の人は、すぐに女性の車のところへ行き、
 「あんたは車に乗って、ハンドルを動かして。」
と言うと、一緒にいた他の男性と車を押し始めました。車はすぐに動き、安全な場所まで移動することができました。
 私たちは、歩きながらその様子を見ていただけですが、なんだか心が温かくなりました。母も、
 「私たちまで嬉しくなるね。」
と言っていました。女性は一人だったので、きっと心細く、どうしようかと思っていたことでしょう。そのようなときに、「どうした。大丈夫?」と声をかけてもらえて、本当に嬉しかっただろうと思います。
 私はこのとき、「私にも嬉しかった出来事があったな」、と思い出しました。小学校一年生のときの学校の帰り道、体の小さかった私が、たくさんの荷物を持って重たそうに歩いていると、
 「荷物、持ってあげるよ。」
と、一緒に歩いていた二年生の友達が、荷物を持ってくれたのです。そのときは、とても嬉しい気持ちになりました。また、夏の暑い日の帰り道には、友達の家の前で別れようとしたとき、
 「ちょっと待ってて。」
と、友達が家の中に入って、
 「はい、麦茶飲んで。」
と、冷たい麦茶を持って来てくれたこともあります。冷たい麦茶はとてもおいしく、家まで、また元気に歩いていくことができたこともありました。私も小さいときから、周りの友達に助けてもらっていたことを、改めて感じることができました。
 母と一緒に見た男性の親切は、親切にしてもらった本人だけでなく、周りで見ている人まで嬉しく、優しい気持ちになれる思いやりが込められた親切でした。このことから、人に優しくしたり、困っている人を助けるというのは、その本人だけではなく、周りの人の気持ちまで温かく、やさしくしてくれることがあるのだ、ということが分かりました。
 私も、あの日見た男性のように、困っている人を見たら、自然に声がかけられるようになりたい、と思います。

国境を越えた親切
岐阜県 東長良中学校 二年 武藤 遼

 私は今年の夏、初めて中国へ海外旅行に行きました。行く前は楽しみな気持ちの反面、日本語が通じない中で、気持ちや思いを伝えるのは大変だろうという不安もありました。
 しかし、その思いをすぐに消してくれたのは、観光ガイドの邢(けい)さんとの出会いです。
 邢さんは、最初から流暢な日本語を使いながら、私たちに中国の話を色々として下さいました。積極的に多くの人とコミュニケーションを取り、すぐに私たちに溶け込んだ邢さんは、観光客の手となり足となって動いていました。
 私が日本へ国際郵便を出そうとしたときには、「時間の都合で今は無理。」と言うホテルのフロントの方へ、交渉して下さいました。また、帰りの飛行機で、母と私の座席が離れ離れになってしまったときには、すぐに空港の窓口へ飛んで行って、座席を隣同士に変更して下さいました。
 邢さんは、いつも観光客全員に気を配り、困ったときには「オッケー、大丈夫!」と、必ず助けて下さる頼もしい存在でした。
 そんな邢さんが、突然最終日に、自分が観光ガイドの職業についた理由について話を始めました。もともと邢さんは、戦時中の出来事から、日本に対してあまり良い印象を持っていなかったそうです。しかし、三年間の日本留学で、その気持ちが少しずつ変わっていきました。
 特に印象的だったのは、アルバイトの面接の場所が分からなかったときのこと。見知らぬ日本人に行き方を尋ねたところ、その人は分からなかったけれど、その息子さんが自家用車で、自転車の邢さんを現地まで先導して連れて行ってくれたそうです。
 そのときから、邢さんの日本人に対する印象はガラリと変わり、日本人が好きになりました。その後も、親切な日本人との出会いがたくさんあったそうです。そして、帰国後も日本人と関わる仕事をしたいと思って、日本人向けの観光ガイドという職業を選択しました。
 この仕事に就いて九年経つそうですが、とても充実した毎日だそうです。邢さんは、日本人から親切にされたことをずっと忘れないで、今は私たち日本人に親切に接して下さっています。
 私は、「親切」とは国境を越えて、人から人へと広がっていくものであると感じました。今回の旅行を終えて、私は将来、まだどのような職業に就くかは分かりませんが、邢さんのように、国境を越えた親切を行えたらいいな、と思っています。
 不思議な話ですが、元々私の名前「はるか」は、海外へ留学経験のある両親が、「はるかかなたの外国と日本の架け橋になれますように」という願いを込めて、つけたそうです。
 私は旅行中、中国人に親切にされたときは、中国語で「謝謝(シェイシェイ)」と伝えることを心掛けていました。一見、無表情で事務的な中国の方でも、感謝の気持ちを伝えると、ニコッと笑顔になってくれます。
 言葉は通じなくても、「親切」は世界共通のもの。だからこそ、常に思いやりの気持ちを持って人に接したり、感謝の気持ちを表したりすることが大切なのだ、と感じました。

言葉の親切
岐阜県 鵜沼中学校 三年 服部里帆

 「それは、親切とはいわないよ。」
と、ある老人施設で言われたこの一言に、私は悩まされた。
 歩行のリハビリ中のAさんは、ふらふらと歩き、今にも倒れそうだ。他人事のように、大変そうだな、と思いながら見ていた。そんなことを考えていたら、A子さんが、私を見て、
 「ちょっと手を貸してくれるかい。」
と言った。すかさず私は、親切のつもりで、Aさんのリハビリの介助をさせて頂いた。しかし、作業療法士の方は、Aさんに、
 「Aさん、自分でやらなきゃ意味ないよ。もう少し自力で頑張ってみましょう。」
と声をかけ、ボランティアである私に、
 「すぐ手伝っちゃうと、リハビリにならないんだよ。親切が、ときには出来ることを奪っちゃうからね。」
とアドバイスを下さった。その言葉は、とても衝撃的だった。私は親切のつもりでも、Aさんにとっては回復を邪魔されたようなものなのだ。私は、どうすればAさんのためになるのか考えた。
 中学二年生のとき、卓球部である私は、後輩の試合を見ていた。一緒に見ていた顧問の先生や先輩は、技術のアドバイスだけでなく、気持ちで負けないように、大きな声で応援していたことを思い出した。これだ、と私は思い、Aさんに、
 「頑張って下さい。あと三メートルぐらいで終わりですよ。」
と、声を出して応援した。Aさんは、私の声に応えるかのように、自らリハビリに励んだ。リハビリ後、Aさんは私に、
 「応援のおかげで、頑張れたよ。ありがとう。」
と言って下さった。私は、やっとAさんに対して親切にすることが出来たのだ。
 このようなことは、老人施設でなくてもよくあることだ。「面倒くさがって、自分の仕事をしない人」の代わりに、仕事を肩代わりする光景は学校でも見られる。「肩代わりする人」は親切のつもりでも、実際はどうなのだろうか。たぶん、「肩代わりしてもらった人」は、何でも人に頼り、将来自分では何も出来ない人間になる確率が高いだろう。
 そう考えると、この行動も親切とはいえない。この場合も、Aさんのときのように、「自分で頑張ってみよう」という応援の言葉を送って、初めて親切をすることが出来たといえるのではないだろうか。
 このように、困っている人を助ける行動も親切だが、自分で出来ないと諦めかけたり、無理だとくじけそうな人に対して、声をかけて後押ししてあげることも小さな親切だ、と私は思う。

わたしのうけた「小さな親切」
長野県 筑摩野中学校 一年 蓬田真菜

 「長野県に来て良かった、と思えるよう生活しましょう。」
 それが、私たち家族の約束でした。
 七月四日、私たちは福島県から長野県松本市へ引っ越してきました。はじめは、福島県から来たということで、放射能が危ないとか、原発のところだとか、いろいろ聞かれてしまうかな、と不安でいっぱいでした。
 その他にも、友達ができるのかな、勉強ができるかなと気持ちが沈んでいました。学校へ登校する日、重い足どりで学校まで行きました。教頭先生や校長先生にあいさつをし、一年五組の教室へと足を進めました。
 教室へ入った瞬間、ここが私のクラスなんだ、と思いました。自己紹介をし、机に座り、緊張していた私は、となりの子から自己紹介をされて、名前だけを言いました。
そこで、となりの子に、
 「どこから来たの?」
と言われたとき、ドキッと一瞬心臓が止まりました。私が、一番恐れていた言葉だったのです。そして、私は勇気を出し、
 「福島県です。」
と言うと、となりの子は、
 「地震、大丈夫だった?」
と心配してくれました。私はそのとき、とても嬉しくなりました。その他のクラスメイトも私に近づいてくれて、お話をしたり、学校案内をしてもらったりと、たくさん親切にしてもらいました。
 私はそのとき、長野県っていいな、松本っていいな、と思いました。みなさんは、私に優しく接してくれて、友達も出来て不安がきえました。家に帰ったときには、早く学校へいきたいな、と思うようになりました。
 その次の日から、楽しく学校へ通えるようになり、部活動も始め、楽しくて楽しくて充実した毎日を過ごせました。
 夏休みに入り、部活動を毎日行い、夏祭りや部活動の大会などの行事にも参加し、とても楽しい日々を過ごしました。でも、ふと福島の友達の顔を思い出すときがあり、「私だけ幸せでいいのかな?」と思い、落ち込んでしまいます。
 そのとき、夕日が沈んでいく山を見ると、ほっとするというか、安心するというか、心が穏やかになります。まるで、山が「大丈夫だよ。大丈夫だよ」と、私たちを見守ってくれているようで、自然からも愛情をすごくもらったように思えます。
 これから、私は本当の意味の親切とは何かを考えて、自分なりの親切をしていきたい、と思っています。そして、こんな気持ちにさせてくれた長野県の自然やみなさんに、感謝を伝えたいと思います。
 長野県、ありがとう。松本市、ありがとう。筑摩野中学校、ありがとう。

第36回「小さな親切」作文コンクール入賞・入選作品-10

入賞【中学生の部】

あいさつを好きになる
北海道 東陵中学校 二年 和田悠里

 みなさんは、あいさつをするのが好きですか。あいさつをされるのが好きですか。
 私は声が大きいのがとりえで、大声を出すのが、なぜか楽しいと思っています。そのせいか、小学校のころから、なんとなくあいさつが好きでした。
 でも、今は本当に好き、と言えます。あいさつは、良いことばかりだと知ったからです。
 良いことの一つは、あいさつをすると気持ちがいいことです。私が、学校のろう下で会った後輩に、「こんにちは。」と言ったら、向こうも「こんにちは。」と、実にうれしそうな顔で返してくれました。その顔を見たら、あいさつってこんなに気持ちがいいのか、と思いました。
 また、もう一つとして、あいさつをされるのも気持ちがいいこともあげられます。
私の学校では毎朝、「あいさつ運動」が行われていて、その名のとおり、生徒会や生活委員会の人たちが、玄関に並んであいさつをしてくれます。この「おはようございます」が、たまらなく気持ちがいいのです。本当にいつもお疲れ様です!!
 そして、もう一つ。それは、人とつながることができること。嘘だと思う人もいるかもしれませんが、本当です。必ずとは言い切れませんが、可能性は十分にあります。
 私が中一のころ、「あいさつ運動」をしていた生活委員会の女子の先輩がいました。ただ学校の先輩というだけで、何も知りませんでしたが、その先輩は特に大きな声であいさつをしていて、私からすると目立っていました。
 そして、ある日、私はその先輩と同じ先生に用事があり、目が合い、「あっ、朝のいつもの子。こんにちは。」と言ってくれたのです!もうどんなにうれしかったことか。私がいつも大きな声であいさつをしていくのを、覚えていてくれたのでしょうか。
 こうして、それからはずっと、学校のろう下で会ったときも、たまたま同じだった塾で会ったときも、あいさつを交わしています。
 その先輩は、本当に明るくて元気な先輩で、私の尊敬するあこがれの人です。本当にこの先輩と出会えて良かった、と思います。
 こんな風に、良いことばかりの「あいさつ」。恥ずかしかったり、面倒だったりするかもしれませんが、やってみたら好きになると思います。
 コミュニケーションの一つである「あいさつ」を、一人一人が好きになるのは、人とのつながりの大切さを知り、社会全体を明るくすることにつながるのではないでしょうか。

被災地から見れた思いやり
岩手県 北陵中学校 二年 浪岡晃岐

 三月十一日、東日本大震災があった。沿岸部の被害はとても大きく、多くの人々が死んでしまったり、今でも行方不明の人々がたくさんいる。
 内陸部は停電となったが、電気がついてテレビを見たとき、しばらく何がどうなっているのか分からなかった。それからしばらくして、沿岸部の人たちは、体育館や仮設住宅で生活していた。体育館で生活していた人は、たくさんいた。
 テレビを見て、その体育館でたくさんの思いやりを見ることができた。
 一つ目は、ボランティアの人たちのこと。今回の震災で、多くの人がボランティア活動に行った。がれきを片づけたり、被災者にいろいろあげて元気づけたり、本当にたくさんの人が協力していた。沿岸部がより早く復興できるよう、話しかけて、少しでも勇気づけようとしていた。
 自分の学校では、部活によって、沿岸の中学校に行って練習試合をやったりしていた。こういうのは、被災者への思いやりだと思う。これなら、だれでもやろうと思えばできる。
 二つ目は、被災者同士でのこと。被災者同士で声をかけ合い、食べ物を分けあったりしているのをテレビで見た。体育館の中、朝起きたり、夜寝るとき、お互いに声をかけていて思ったことがあった。ボランティア等の人たちは町を、被災者同士は互いの心を復興させていってるんだな、と思った。
 それぞれできることは、違うと思う。人それぞれで、なおせる物は違う。でも、それは全て一つの思い、他人の力になるという思いやりからくるのだ、と思う。
 がれきの片づけもまた人が住めるよう、行方不明者を探している家族の元へ返せるよう、少しでも話してその人に元気が戻るよう、全て人のためにやっていること。どんなに小さい思いやりでも、同じ思いやりがたくさん集まれば、きっととても大きな思いやりになる、と思う。
 その大きな思いやりがあれば、きっと復興できると思う。まだ先になるのかもしれないけれど、復興までがんばってほしい。

笑顔の架け橋
山形県 第五中学校 三年 豊野実佳

 私がした親切は、つい最近のことです。友達と買い物に行った帰りに公園に寄ると、一人のおばあちゃんが、花壇の雑草を一生懸命抜いていました。
 たった一人で雑草を抜いているおばあちゃんを見た私と友達は、そのおばあちゃんを手伝うことにしました。
 「おばあちゃん、私たち、手伝いましょうか。」
 私がそう言うと、そのおばあちゃんは、
 「い、いや……、大丈夫ですよ。」
と、おどおどしながら言いました。
 「でも、おばあちゃん、一人で大変そうじゃないですか。手伝いますよ。」
 そう言うと、おばあちゃんは、
 「そんなに言うなら、お願いします。」
と遠慮がちに言いました。
 それから私たちは、おばあちゃんに教えてもらいながら、雑草抜きをしました。最初、おばあちゃんはとても控えめでおとなしかったのですが、話しているうちに、うち解けることができました。
 「夫が死んでからは、話す人なんていなくてね。すごく淋しかったのよ。こんな老いぼれババアなんかに話しかけてくれて、手伝ってくれて、ほんにありがとうなあ。」
 おばあちゃんは、うるんだ瞳を光らせながら、これでもかってくらいのくしゃくしゃの笑顔を私たちに向けました。私には、そのくしゃくしゃの笑顔がとても輝いて見えました。
 そんな笑顔を見て、私は嬉しいような、照れくさいような、くすぐったいような、妙な気持ちになりました。でも、その妙な気持ちは、決して嫌なものではありませんでした。「言葉に言い表せない気持ち」を、そのとき初めて感じました。そして、親切の大切さを改めて実感しました。
 親切は、友情や信頼、絆を生みだす原点だと思います。私も、親切を通しておばあちゃんと仲良くなれました。
 しかし、親切に対して、「恥ずかしい」「面倒臭い」などという否定的な考えを持っている人がたくさんいますが、そういう人も親切をすれば、良さが分かるはずです。「親切をする機会がない」と言う人もいますが、私たちの身の回りには親切が溢れています。
 電車で席を譲る、物を貸す、落とした物を拾ってあげるのもそうです。考えてみれば、数えきれいないほどの親切が私たちの身の回りに溢れていることが分かります。いうなれば、私たちは親切と共に生きているのです。親切がなければ、人と関わり合うことなんてできないので、親切がいかに私たちの身近にあり、必要だということを理解して、生活していかなければなりません。
 親切は、人と人とを繋ぐ「笑顔の架け橋」だと思います。私は、その架け橋を大切にしながら生きていきたいです。

思いをつなげて
山形県 長井南中学校 三年 四釜佑香

 二〇一一年三月十一日午後二時四十六分、東日本大震災が起こりました。この震災によって何万人もの人が亡くなられ、被災にあわれた人たちがたくさんいます。
 震災から一週間後、ある一通のメールが母の携帯に送信されてきました。それは、「避難所で生活を送る人たちへ、生活必需品を届けよう」という内容でした。母は、すぐさま私たちに、
 「みんなで協力して、家の中で何か提供できる物がないか探してみよう。」
と言いました。私は始め、「母がするからいいだろう」と、手伝おうとはしませんでした。
 しかし、毎日テレビで流れる避難所の様子や新聞から伝わる被災者の声に、私は役に立ちたい、という思いで一杯になりました。タオルはもちろん、下着や靴下等、何か使える物がないか、母や兄弟と一緒になって準備しました。いつか使おうと思って残していた物を、今困っている人たちへ届けたい、と強く思いました。
 次に、被災地の方々が必要としていた自転車。私の家には兄弟四人に対し、成長に合わせて増え続けた自転車がたくさんありました。しかし、どれも使い回しされたため、タイヤがパンクしていたり、スタンドがなかったり、ベルがサビて鳴らなかったりしました。そのため、処分を待っていたものもありました。
 こんなものが本当に使用されるのだろうか、と半信半疑で事務局に連絡しました。すると、
 「使えればいいです。パンクしていてもかまわないので、ぜひご提供ください。」
と言われました。
 被災者の方には、少しでも良い状態のものを届け生活に役立ててもらいたいという一心で、私は母と協力して、自転車の修理を始めました。空ぶきから始め、サビを落としたり、部品を足しているうちに、気付くと夕暮れでした。
 私と母ではどうにもできない部分を、祖父に見てもらい、修理してもらったおかげで、六台提供することができました。パンクしていた自転車は、地元の自転車屋さんが、
 「被災地に持っていくなら、協力させてほしい。」
と無償で修理して下さり、本当にうれしかったです。
 今回の取り組みを通して、考えたことがあります。それは、「まず行動してみる」ということです。「これは無理だろう」とか、「不必要かもしれない」といった否定的なことを、私たちは先に考えてしまいがちです。その瞬間に感じたこと、思ったことは形にしなければ、誰にも分かりません。
 実際に行動してみたら、できたという経験は誰にでもあるはずです。今回のように、同じ考えをもつ人たちが協力すれば、その力は何倍も大きくなります。親切にすることも、されることも、まず自分の心を開き、思いを分かち合うことが大切だと思います。

“ココロ”
宮城県 八乙女中学校 三年 及川尚美

 心って何でしょう。思いやり、自尊心、共に分かちあえる“心”。心は重くて、人や動物など、様々な生き物にあります。今回私が体験し、今後活かしていこうと思ったのは、「互いに助け合う」親切です。
 今年三月十一日。小さな日本を、地震と津波が襲いました。海は激しい波となり、町や逃げまどう人々を飲み込んでいきました。津波到着まで、あと五分。その間に、自分はどうしたらいいのか。幸い私は、県の中心部に居たため、津波が来ることはありませんでした。
 ですが、M9.0の地震ということもあり、ショーケースのガラスは下でくだけ散り、皿も割れ、家には多数のきれつが入りました。大規模半壊で済んだものの、その大きさは一目瞭然でした。三日程家で過ごしましたが、小学校へと避難することになりました。
 避難といえども、一度にすべての人が避難できるわけではありません。私たちは、おとなりの人と一緒に避難したのですが、あたえられたスペースはわずかたたみ二じょう程。そんな小さなスペースに、私たちは六人で生活しなくてはなりませんでした。
 遅れをとりスペースをとれなかった人は、何百人といるはずなのに。そんな人のことを思うと、胸が痛くて夜も眠れませんでした。
 避難生活に慣れ始めたころ、非常食の配布が始まりました。渡されるのは、α米やわかめごはん、クッキーなど。プラスチックの容器に入れられた、少しですがあたたかいご飯でした。筆箱一つ分のごはんを、三日に分けて食べたりと、むなしい生活は続きます。
 ある日、母と姉、そしておとなりが自宅へと荷物を取りに行きました。自分一人取り残され、寂しいばかり……、とそこで、クッキーが配布され始めました。「二つのスペースで三十枚入を一つ」「二家族で分けて下さい」。どうしよう、自分は今一人だ。
 配布されても五枚ほどしかもらえない、と思っていると、私たちの後ろで生活していた人が、
 「すみません。ここ二家族だから、丸々一個下さーい。」
と言ってくれたのです。
 「困ったときは互いに助け合わなきゃ。こんなときだし、がんばっていこうね。」
 私は、思わず涙ぐんでしまいました。ああ、思いやりとは何てあたたかいのだろう。他人の人情を感じたのは、これが初めてでした。
 つらいときも苦しいときも、私をいつも助けてくれるのは、身の回りの人でした。ですが、今回このような体験をして改めて気付いたことは、“心”はいつでも自分を助けてくれるパートナーなのだ、ということです。
 自分を愛せなくては、他人も愛せない。これから私は、“心”を自分のものだけにせず、家族や友達、そして、これからはもっと多くの人と心を交わせていこうと思いました。
 「困ったときはお互い様」。自分もいつか、そう言えるように。

一歩踏み出す勇気
群馬県 富岡東中学校 三年 高麗由華

 私は、ある出来事が起きたあの日から、「一日一善」を心がけている。
 そのきっかけとなったあの日。それは、部活動が終わって友達と帰る途中だった。ふと反対側の道を見ると、白杖を持った老人が一歩一歩ゆっくりと歩いていた。見ていると、ふらふらして今にも車と接触しそうだ。
 私は、おじいさんが心配で、家に帰るのをやめてずっとおじいさんを見ていた。すると、おじいさんは横断歩道を渡り始めた。白杖一本と耳を頼りに、周りを探りながら横断歩道を渡る姿を見て、不安な気持ちでいっぱいになった。
 「大丈夫かなあ」「誰か助けてあげて!」、そんな思いだった。でも、私は見ているだけで、何も出来なかった。私が弱い心と戦う今も、おじいさんは横断歩道を渡りきれていない。
 「大丈夫ですか?」そんな簡単な一言を、私は言えないまま。その後、おじいさんの近くまで行ったり、勇気が出なくて横を通りすぎたりの繰り返し。「あー、もう、どうしよう」「助けなきゃ」。でも、やっぱり私は話しかけることが出来なかった。おじいさんが早く横断歩道を渡りきらないせいで、おじいさん待ちの車はどんどん増えて行く一方だった。
 そんな光景を目にした私は、助けに行こうと決心し、一歩踏み出した。私の歩くスピードが速くなるにつれ、おじいさんと離れていた距離もだんだん近くなってくる。「あと、もう少し」。そのとき、後ろから走ってきた女の人が、私の横を通り過ぎた。
 そして、その女の人は、おじいさんの傍らへかけ寄り、あのおじいさんを助けていた。私は安心するとともに、「やっぱり私が、力になりたかったなあ」という後悔の気持が、心のどこかにあった。
 それから家に帰る途中、いつもは短く感じた道のりが、その日はとても長く思えた。それは、助けられなかった後悔と自分への軽蔑で、足取りが重く感じられたからだろう。私があのとき、勇気を出して声をかけていたら……。何度もそう思った。家に帰っても、夕飯が喉を通らず、自分が憎くさえ思えた。
 今となっては簡単に言えることだが、その状況に実際にたち、自分の弱い心を知ることが出来た、そんな気もした。
 次の日から私は、「一日一善」を目標に決めた。そして、できるだけ実行した。例えば、私の住む町には富岡製糸場があるので、製糸場を見に来たが場所が分からず迷った人に、自分から声をかけたこと。道を聞かれたときに説明で終わらせず、現地まで案内したことが何度もある。
 今までの私は、こんなことができなかった。きっとあの日の出来事が、私を変えたのだ、と思う。あの日に味わった後悔を、私は心に刻み込んだ。
 もし再び同じ光景を目にしたら、私はすぐに走ることができる。そして、今はまだ心に刻んである「勇気を出して一歩踏み出そう」という言葉だが、いつかは自然な気持ちの表れにしたい。

震災の中で
茨城県 結城南中学校 三年 小堀眞生

 三月十一日。人々が今までに体験したことのない大変大きな地震が起こりました。東日本大震災です。
私は地震が起こったとき、学校の自分の教室にいました。床がどんとなって大きく揺れたのを、今でも覚えています。もちろん、恐怖で泣いている人もいました。私は、「大丈夫だよ。」となぐさめてあげました。
それから、揺れが大体おさまって、家に帰ることになりました。私は、いつもかよっている道を通って帰ることに決め、いつも通り交差点を渡ろうとしたとき、なんと停電で信号が止まっていたのです。
これには、あまり感情を出さない私でも、目を丸くしてしまいました。危ないな、と思いながらも、そこを通らないと帰れないので、車の流れが止まるまで待っていたら、道をゆずってくれたドライバーの方がいて、無事に通ることができました。私は、こんなときに親切にしてくれる人がいることに少し感動しました。
家に帰ると、近所の人たちが外に出ていて、みんな心配そうな顔をしていましたが、帰って来た私の顔を見てほっとしたみたいで、うれしかったです。それと、「無事でよかった。」と温かい言葉をかけてもらえたのも、とてもうれしかったです。
それから、家に入ると、中はめちゃくちゃになっていました。壁が崩れている部分があったり、食器が粉々になっていたり、テレビが派手に落ちていたりなど、朝と見違えるほどになっていました。見たときは、言葉を失いました。ショックすぎて、涙も出ませんでした。
でも、いつまでも悲しんでいられないので、家族みんなで片づけらるところは片づけて、やっとの思いで夜をむかえました。するとそこに、近所の人が、温かいおにぎりを持って来てくれました。それは、体だけでなく心まで温かくしてくれました。
 そして、次の日。電気は止まったままで、家の中の片づけをしました。テレビは見れないので、情報は、ラジオで得ていました。震災当時は、各地の様子などが主でしたが、時間が経つにつれて、応援メッセージなどが読まれるようになりました。それが、本当に心の支えになっていました。それ以来、私はよくラジオを聴くようになりました。
今は、もちろん元の生活に戻りましたが、まだ完全に元の生活に戻っていない方も、日本にはたくさんいることと思います。私は自分に出来ることをと考えた結果、募金をすることにしました。小さいことですが、いずれは大きな力となることを信じて募金しました。
今回の震災は、私にたくさんの人の温かさを教えてくれました。今まで忘れていた人の親切。これを機に、忘れないようにしようと思います。
この震災で、大きな暴動が起こっていないのは、日本人の力だと思います。これからの未来を生きる私たちにとって、この震災と日本人の親切心は持ち続けて、後世へ伝えていきます。

蛇口の開け方
東京都 東京学芸大学附属国際中等教育学校 二年 鄖 雪晴

 私の両親は、共に中国人だ。父の銀行事務の引き継ぎがなければ、四年生のときから日本へ引っ越すことにはならなかった。
 実際に日本に来ると、中国との一つ大きな違いが見えてくる。そこでは貧富の差が広く、農民の地位が低いため一番軽蔑されている。国民全体の教養、修養が足りない表れだと思う。日本では富裕層も教養づけられているし、複雑な関係を持っていない為、国民全体が影響され、平等な社会になっている。
 ふと私は、小さい頃、中国北京にあるレストランのお手洗いでの経験を思い出した。その日、内陸部の辺鄙な片田舎から、一人の女の人が子供を連れて来ていた。目立つ緋色の上着に、布地が粗いベージュ色のズボンに布靴という恰好から、誰もが近づこうとしなかった。
 やっと順番が女の人に回ってきた。普通のように蛇口をひねろうとするが、水が出ない。センサー式自動蛇口だ。女の人は不思議そうに、蛇口をひねったり、ぬいたりして水を出そうと必死になった。
 やがて、後ろに並んでいた人たちは、とうとう忍耐しきれなくなり、大声で女の人に対する不満をぶちまけた。女の人は気まずくなり、「対不起。請下一位吧。」(すみません。次どうぞ。)とその場を逃れようとした。
 しかし、隣の一人の女の子の行動を目にした女の人は微笑み、「対不起。請譲我再洗一次好嗎。」(もう一度手を洗い直していいですか。)と、列に再び並んだ。
 その女の子は、見た目から大学生のように見える。彼女は手を洗い直すふりをして、誰もが助けてあげようとしなかった女の人のために、無口な行動を起こし、プライドを傷つけることなく、女の人を助けた。このことは、今でも私に強い印象を残している。
 実際、中国の社会では、道徳心を第一に重視化している人は必ずいる。人権を尊重し、平等な人間関係を好む人は必ずいる。私もその一人だ。農民だって、社長だって、自分たちの両手を使って働いている。稼ぐお金の値が違っても、お金の価値は一緒だと思う。
 色々なそれぞれ違う役割を果たす人たちがいるからこそ、社会は成り立っている。しかし、人種差別や性別差別は、一部の国で今でも続いている。そして、国連など世界平和を精神とする国際組織は、差別が正しいと考える人たちに影響を与え、行動から無差別の良さを伝えている。
 このことから、これから私は、小さな親切と呼ばれる行動の積み重ねで、あの女の子のように周りの人たちを影響していき、平等な社会を作り上げることが、私の一つの大きな目標だ。

第36回「小さな親切」作文コンクール入賞・入選作品-9

入賞【小学生の部】

男の人がたおれた
福岡県 藤木小学校 二年 藤田吟靖

 おとうさんの車にのっていたとき、男の人が、じてん車の通る線の中でたおれました。ふらふらと歩いてきて、ぱたんと手をついてたおれました。車の中で、ぼくはびっくりして、
 「そこで、人がたおれていたよ。」
と言うと、おとうさんは、
 「おさけをのんでいるから、たおれたと思うよ。」
と言いました。ぼくは心ぱいで、
 「おとうさん、人がたおれたんよ。もしも、おさけやなかったら、しんでしまうかもしれん。ここは車が多いから、ほかの車が通れないようにしておかないと、男の人はひかれるかもしれん。」
 すると、おとうさんは110番に、でん話をしてくれました。そして、
 「たおれているから、きゅうきゅう車もおねがい。」
と言いました。
 それから、おとうさんは、車を男の人のそばにとめました。男の人は、ねころがって、手と足をふるわせていました。
 おとうさんがでん話をしている間に、ふるえがゆっくりになって、だらんと止まってしまいました。おとうさんはでん話で、
 「しんぞうが止まったから、きゅうきゅう車をはやくこさせて。」
とあわてて言うと、りょう手をしっかりかさねて、心ぞうのところを力強くおしました。ぼくは、おとうさんを見て、「やさしいし、たよりになるな」と思いました。
 心ぞうマッサージをしていると、男の人がきゅうにおき上がってすわったので、「生きかえった。よかった」と、思いました。
 それからまた、ねころがっていました。ちょうどそのとき、ピーポーピーポーという音がして、きゅうきゅう車がきました。きゅうきゅう車の人は、男の人に何かしていました。
 そのあと、おとうさんとぼくは、車でかえりました。男の人が生きかえって、本当によかったです。かえるとき、おとうさんから、
 「ぎんせいが見つけていなかったら、おいちゃんはしんでいたよ。車の人は、よっぱらいと思って、すいすい行ってしまったから。ぎんせいは、すごい。やさしいな。」
とほめてくれました。
 ぼくは、男の人もたすかったし、おとうさんにほめられて、うれしかったです。
 気もちがよかったです。

ありがとうグランド、ありがとうお父さん
福岡県 福岡教育大学附属久留米小学校 四年 中村后希

 ぼくは、野球チームに入っています。チームの名前は、福教大附属ビーバーズです。毎週土日に、学校のグランドで、朝から夕方まで練習しています。
 ぼくたちが、一生けん命練習をすればするほど、グランドはデコボコになります。学校の行事があるときは、ちゅう車場にもなります。タイヤのあともついていたりします。雨がふれば、そのまま土がかたまります。そんなグランドを見て、なんだかかわいそうな気持ちになります。
 そこで、ぼくは、お父さんに相談しました。夏休みの夕方、お父さんが、
 「今から、グランドをきれいにしにいくぞ。」
と、ぼくに言いました。でも、あの広いグランドを、「どうやって、きれいにするんだろう」と思いました。
 軽トラックで、大きな鉄板を引いて、グランドのすみからすみまで車を走らせました。鉄板の重さが足りなかったので、ぼくはその鉄板の上に乗りました。その作業を、二時間位続けました。とても暑くて、つらかったけれど、グランドは生まれかわったように、すごくきれいになりました。
 その日、夕方練習があり、かんとくやチームのみんなも喜んでくれました。お父さんが、
 「練習中にみんながけがをしないようにと、いつも使っているグランドに、感謝せんといかんね。」
と言いました。
 三月の東日本大しん災で、家や学校、何もかも津波に流され、家族も失った人たちをテレビで見ました。野球をしたくても、道具もない、グランドもない、ぼくはどんなにつらいだろう、悲しいだろう、と思いました。
 ぼくたちは、ふつうにくらして、ふつうに学校へ行って、いつでも思いきりこのグランドで野球ができる。ぼくたちは、本当に恵まれているな、と初めて感じました。今、すべてのことに感謝したいです。
 今、ぼくにできることは、道具やグランドを大事に使うことぐらいです。そして、ぼくの話を聞いて、お仕事がいそがしいのに、グランドをきれいにしてくれて、お父さんありがとう。いつも、ぼくたちの練習を見守ってくれるグランド、ありがとう!!

おばあちゃんの言葉をむねに
熊本県 白川小学校 五年 川本 渚

 昨年の二月の梅祭りに、私は小さな親切をした。
 会場には、階段を下りていかなければ行けなかった。私は、家族よりはやく行っていた。そして、最後の階段で、つえをついている一人のおばあちゃんを見つけた。おばあちゃんは、こまった顔をして、つえをつきながら階段周辺をウロウロしていた。
 それは、だれが見ても足が不自由で、階段を下りられないのがよく分かった。でも、他の大人の人たちは、気づいているのかいないのか、さっさと階段を下りていってしまった。
 私は、立ちどまってしまった。おばあちゃんのこまった顔を見ていると、助けなければいけないと思うのに、私の「大丈夫ですか。かたをかしてあげましょうか」の一言が、のどにつまって、ひっかかって出てこない。私は、自分の心の中で、助けてあげなきゃ、でも言葉が出ない。どうしよう、どうしようと思いつづけていた。
 すると、おばあちゃんは、私に気づいたのか、
 「ちょっとそこのおねえちゃん、私にかたをかしてくれんかい。足が痛くて、下りられないんだよ。」
 そう言いました。私は、ドキドキしました。そのしゅんかんから、足はガクガクなりだして、手には汗をにぎっていました。
 そして、こう思いました。おばあちゃんにあわせてゆっくり下りられるだろうか、転ばせないように上手にうまく下りられるか、その思いが頭の中でグルグル回っていました。
 気づくと私は、きんちょうでガクガクした足で、おばあちゃんの足にあわせてゆっくりと下りていました。そして、下の会場についたとき、おばあちゃんが、
 「ありがとう。おねえちゃんがいなければ、下りられなかったよ。本当にありがとう。助かったよ。これからも、他の人にこういうふうに助けてあげなんよ。」
 そう言ってくれました。私は、最初に声をかけられなかった私が、なさけなく思えてしまいました。でも、おばあちゃんの言葉は、心に深くひびきました。
 私は、これからもこまっている人がいたら、勇気をふりしぼって、声をかけようと思いました。そして、このことがあって、自分はたよりにされているのだ。しっかりこまっている人を助けなければならないのだ、と思いました。
 おばちゃん、私によい経験をさせてくれてありがとうございました。私は、おばあちゃんの言葉をむねに、これからもこまっている人がいたら、助けてあげようと思いました。

おじさんがくれた小さな親切
熊本県 本渡北小学校 五年 弓削真琴
 
「あっ。」そう思ったときには、私はもう道路にたおれていました。自転車で転んでしまったのです。
 その日は、学校が早く終わったので、一度家に帰ってから出かけました。久しぶりに自転車にのったので、気をつけて行きました。
 ピアノが終わり、帰るときも気をつけて帰っていたのです。ところが、道路のはしにある小石に、タイヤが乗り上げてしまったのです。
 「いてってっ。」
 起き上がると、自転車がたおれています。しかも、両足から血が流れています。私は、泣きたくなりました。
 そのときです。見知らぬおじさんが、こっちへ近づいてきました。おじさんの手には、「よもぎ」があります。おじさんは笑顔で、
 「だいじょうぶだよ。これを足につけなさい。」
 おじさんは、血が出てる両足を指さしました。私は、見知らぬおじさんが、こんなにやさしくしてくれるとは思いませんでした。周りにも車が通っていたのに、だれも気づいてくれません。そのおじさんだけが来てくれて、よもぎまでつんできてくれたのです。
 「ありがとうございます。」
と言いながら、私はうれしくて、涙が出てくるのをがまんできませんでした。もらったよもぎをもみながら足につけて、私は家までの道を、涙をポロポロ流しながら帰りました。
 その日の夜、お母さんに、そのことを伝えました。すると、お母さんは、
 「親切な人と、出会えてよかったね。そのおじさんは、どんな人だったの。」
と聞きました。そのとき私は、そのおじさんの顔をしっかり見ていなかったことに気づきました。だけど、とてもやさしい顔をした、私のおじいちゃんによくにた人のような気がしました。
 私は今まで、だれかこまっている人がいたら、「自分にできることは、ちゃんとしてあげよう」と思っていました。だけど、自分が本当にこまったときに助けてもらって、はじめて、助けてあげようじゃないのだ、ということに気づいた気がします。
 私は、あのやさしいおじさんのように、あたたかい笑顔で、「だいじょうぶだよ」と言える人になりたいと思います。親切って、してあげるのじゃなくて、自然にしてしまう行動だと思うからです。

あいさつ
熊本県 龍田小学校 六年 中田千咲子

 あいさつはすごいなあ、とつくづく思うようになりました。それは、あしさつをするたびに、やさしい方とたくさん出会えるからです。これから紹介するのは、特に心に残った一人のおじいさんの話です。
 その方は、私が六年生になるちょっと前の春休みに、お会いしました。私は、部活へ行くために、家の近くにある橋をつっきっていました。すると、そこにおじいさんが一人ぽつんと座っていたので、
 「おはようございます。」
と、声をかけてみました。おじいさんは、
 「おはよう。今から部活ですか?」
と返してくださったので、私が「はい。」と答えると、おじさんは、
 「もしかして、吹奏楽部ですか?お兄さんは、いらっしゃいますか。もしかして、お兄さんも吹奏楽部ですか。」
とたたみかけるように、質問してきました。
 「はい、そうですが。兄を知っているのですか。」
と聞いてみると、
 「ええ、知っています。お兄さんも、あなたのように声をかけてくださいました。お話を聞いてみると、吹奏楽部に入っており、こんど定期演奏会があるので、ぜひ来てください、とさそわれたので、定期演奏会に行きました。とってもすばらしかったです。お兄さんに伝えてくれませんか。ありがとう、すばらしかった、と。」
 おじいさんはそう言うと、深ぶかと頭を下げて行ってしまいました。私はポカーンと口を開けて、ビックリしてしまいました。だって、自分のお兄ちゃんが、おじいさんとあいさつをして知りあって、こんどは、そのおじいさんと私があいさつをして知りあって……。
 何かとっても不思議な感じがしました。あいさつで、人と人はつながるのだ。すごい、と初めて実感しました。このことをお兄ちゃんに話したら、とってもうれしそうでした。
 私はこのことから、あいさつは人とつながることができる方法の一つと考え、あいさつを心がけるようになりました。学校へ行くとき、犬の散歩中のおばあさんに、
「おはようございます。」
と言ったら、
「おはよう。いってらっしゃい。」
と返してくださったり、ある日は部活に行くとき、おじいさんに、
「おはようございます。」
と言ったら、
「ボンジュール、ナンタラカンタラ……。」
と返され、びっくりしたり、と色々ありました。あいさつをすると、みんな笑顔で返して下さり、とってもうれしいし、あいさつをしてよかったなあ、と心から思います。
 元気の源はあいさつなので、あいさつをして、みんなを元気に、そして笑顔にしていきたい、と思います。

心が通うあいさつを
大分県 東山香小学校 六年 德永月乃

 私は、学校の行き帰りに出会った人に、大きな声で元気よくあいさつをしています。私があいさつをすると、みんな笑顔であいさつをしてくれます。
 学校に行くときには、「おはよう」「いってらっしゃい」と言ってくれます。学校の帰りには、「こんにちは」「おかえり」と言ってくれます。とてもうれしいです。
 私が学校を行き帰りする中で、耳の遠いおばあさんがいます。低学年のころは、一度あいさつしても何も返事がなかったら、「まあいいか」と、そのまま通りすぎていました。畑仕事などをしていることが多いので、気付かないのだろう、と思っていました。でも、学年が進むにつれて、そのおばあさんのことが急に気になり始めました。
 あるとき、私は学校の帰りに思いきって、側まで近づいて、
 「こんにちは。」
とあいさつをしました。おばあさんは、おどろいたように私を見て、
 「なんかえー。」
と言いました。私はもう一度、
 「こんにちは。」
と、笑顔であいさつをしました。おばあさんは、
 「あー、こんにちは。」
と、笑顔になりました。そして、
 「私は耳が遠いから、聞こえるまで言うてくれるかい。」
とも言いました。私は、「はい」と元気よく答えました。「そうだったんだ」、私の中のもやもやしたものが晴れていきました。
 その日は、私とおばあさんがあいさつを交わした記念の日になりました。「勇気を出して声をかけて、本当に良かった」と思いました。
 それから私は、学校の行き帰り、おばあさんの側に行って、聞こえるまで何回もあいさつをするようになりました。おばあさんも毎日笑顔で、あいさつをしてくれるようになりました。
 ある近所のおいちゃんから、いつもあいさつをしているおばあさんのことを聞きました。おばあさんは、「あの子は、いつもあいさつをしてくれる。私が耳が遠いということを知ってから、何回でも聞こえるまであいさつをしてくれるんよ、とうれしそうにしとったぞ。ほめよったぞ。」と言われました。私は、その言葉を聞いて、すごくうれしい気持ちになりました。
 私は今も、学校の行き帰り、そのおばあさんや出会う人みんなに、元気よく笑顔であいさつをすることを心がけています。あいさつをすると、心がスッキリして明るくなるような気がします。元気も出ます。
 これからも、ずっと続けていきたいです。

笑顔の輪
大分県 挾間小学校 六年 吉倉錬太郎

 「ドキドキ、ドキドキ、どうしよう。」
 ぼくの目の前に、つえをついたお年寄りが、きつそうに立っている。じゅくに向かう列車の中、ぼくの心の中で、二人のぼくがけんかを始める。
 「かわらんでもいいよ。まだ、ぼくは子どもやし、荷物だって重たいし」「勇気を出して、かわってあげなきゃ。ぼくはまだ元気だから」。ぼくの心がぐっちゃぐちゃなうちに、前の席の人が立ち上がった。
 「どうぞ。」
 ぼくは、はずかしさで下を向いてしまった。じゅくに通い始めて、もうずいぶんたたつけれど、なかなか出ない重たい言葉は、「この席どうぞ」。まるで、言葉に百トンもの重い重いおもりが付いているように、その言葉を出せずにいると、百トンが二百トンもの重さになって、心の中にモクモク黒い雲までわいてくる。
 その日は、バックが特別重かった。そんな日に限って、席はいっぱいで座ることができない。ぼくは、とてもつらかった。座りたくって、たまらなかった。
 ふっと優先席に目がいったら、高校生くらいの女の人が二人、楽しそうにおしゃべりしている。近くに、お年寄りが立っている。ぼくは自分を見るようで、わざと気付かなかったふりをして目をそらせた。
 「荷物、重そうだね。ここに座りな。」
と声をかけられた。
 「あっ、だいじょうぶです。」
 とっさに声が出た。うれしかったし、心があったかくなった。ぼくも、声をかけてくれたおじさんも、にっこりおたがい笑顔になっていた。
 次の日、ぼくは小さな声だったけれど、勇気を出して、
 「よかったら、どうぞ。」
 おばあさんに、声をかけることが出来た。
 「ありがとうね。」
 おばあさんの言葉を聞いたとき、ぼくの心がはれた気がした。周りの人から、
 「ぼく、えらいねえ。」
とほめられて、少し尻がムズムズしたけれど、なんだかとってもうれしかった。
 優先席の高校生に、「そこは優先席だから……」って、注意する勇気はまだないけれど、ぼくが席をかわってあげると、周りの人がほめてくれることで、小さいけれど「笑顔の輪」が出来た。
 いつか子の輪が、優先席の高校生にも届くといいな。それと、明日はもっと大きな声で、「この席どうぞ」って言いたいな。今日よりもっと心がスカッと晴れるかな、と思う。

わたしのおてつだい
宮崎県 東大宮小学校 二年 黒木美寿

 おぼんに、かぞくで、じいちゃん、ばあちゃんのいえへあそびに行きました。ごせんぞさまのぶつだんに、おせんこうをあげたりしました。
 ばあちゃんは、おきゃくさんに、おちゃやくだものを出したりして、いそがしそうにしていました。おきゃくさんが、かえったら、
 「つかれた。こしがいたい。」
と言いました。
 わたしは、何かできることがないかと、あたりを見ました。そろそろ夕がただったので、ごはんの手つだいをしてあげようと思いました。
 白いすしめしがあったので、さしみを上にのせて、にぎりずしをつくってあげました。さしみいがいに、やさいのにぎりずしもつくってあげました。体にいいと思ったからです。
 わたしのつくったすしをみんなが、おいしいとパクパクたべてくれました。中でも、きゅうりとレモンにパセリがのったすしは、みんながビックリして、わらいながらたべてくれました。
 ばあちゃんも、ニコニコわらっていました。みんなで、ばんごはんを、たのしくたべました。そのあと、たべたしょっきを、だいどころへもっていきました。ばあちゃんが、
 「たすかった。おいしかった。
とよろこんでくれました。わたしもそう言われて、とてもうれしかったです。
 いえのときも、おかあさんがつかれているときに、てつだいをすると、すごくよろこんでくれます。
 これからも、ときどきはおてつだいをして、よろこばせたいと思います。

ぼくの一日
鹿児島県 西方小学校 三年 脇薗泰楽

 「いってきます。」
 ぼくは、そう言うと、学校へ向かいます。ぼくの家は、学校からちょっとはなれた場所にあります。
 ぼくは、朝おきがあまりとくいではありません。ねすごしそうになることもあります。雨がふっていたり、にもつが多かったりする日には、「家が、もう少し学校の近くにあればいいのに」と思いながら、いそぎ足で学校へ向かうときもあります。
 学校に行くと中で、ぼくは、国道三号線をわたります。交さ点のところには、校長先生がまっていてくれます。そして、いつも、
 「おはよう。」
と言ってくれます。ぼくが、学校におくれそうな日も、校長先生はまっていてくれます。そんなとき、ぼくは、「校長先生、いつもぼくらの安全のために、交さ点でまっていてくれてありがとうございます」という気もちになります。
 学校の正門をくぐると、次に会うのは教頭先生です。教頭先生は、正門や玄関まわりをほうきできれいにはいていたり、校庭の草をとったりしています。教頭先生は、毎朝かならず、学校のどこかをきれいにしています。
 朝からきれいですっきりとした学校をながめると、「今日も一日、がんばるぞ。教頭先生、いつもきれいな学校で、ぼくたちをむかえてくれてありがとうございます」という気もちになります。
 教室に入って、三、四年生七人の友だちと、一つの教室でべん強をします。西方小学校はふく式の学校なので、先生が四年生を教えている時間は、友だちに教えたり、教えてもらったりしています。
 休み時間には、学年に関係なくみんなであそぶことが多いです。みんなとべん強したり、あそんだりしていると、「友だちっていいなあ。みんなやさしくしてくれて、ありがとう」という気持ちになります。
 学校が終わって帰ると中に、おばあちゃんの家があります。ぼくの本当のおばあちゃんではありませんが、朝に会うと、
 「いってらっしゃい。がんばっておいで。」
 帰りに会うと、
 「おかえり。学校は楽しかったかい。」
と声をかけてくれます。おかしやお茶をくださることもあります。地いきにやさしく声をかけてくれる人がいるのは、とても幸せなことだと思います。
 そして、「おばあちゃん、いつもあたたかい言葉をかけてくれてありがとうございます」という気もちになります。
 家に帰り着いて、みんなで夕食を食べるとき、ぼくは食きをならべる手つだいをします。家族で食事をしながら、「お父さん、お母さん、いつもし事をがんばってくれてありがとうございます」という気もちになります。
 ぼくの一日の中には、「ありがとう」がいっぱいつまっています。

ゆきちゃんのこと
中国 香港日本人学校小学部 香港校 五年 白井 英

 ゆきちゃんは、お母さんの友だちの子どもで、五才の女の子です。ゆきちゃんのお父さんが香港にいるので、夏休みに遊びに来ました。七月の終りに、わたしの家に来て、そのとき初めてゆきちゃんに会いました。
 ゆきちゃんは、耳にほちょう器を着けていました。近くでほちょう器を着けている人を見るのは、初めてでした。ゆきちゃんにわかるように話すには、どうしたらいいのかな、と思いました。それに、五才の小さな女の子は苦手なので、わたしは自分の部屋に入ってしまいました。
 お母さんたちはなつかしそうに話がもり上っていて、ゆきちゃんは、最初はその中にいましたがあきてきのか、わたしの部屋をノックしてきました。だれかな、と思ってドアを開けたら、ゆきちゃんでした。わたしはいっしゅん、「どうしよう」と思いました。
 でも、ゆきちゃんは、わたしがこまっていることなど全然気にしないで、わたしの部屋にどんどん入ってきました。そして、わたしの部屋の中の積木や、四年生のときの理科の実験セットを次々出して、遊び始めました。
 わたしはそれを見て、「遊んでいい?」と聞いてくれたらいいのに、と思いました。でも、ゆきちゃんは遊ぶ前に、わたしの方をちらっと見たのが合図だったのかな、と思いなおしました。そう思うと、さっきまで部屋にかくれてたわたしが、はずかしい気持ちになりました。
 それで、ゆきちゃんと一緒に遊ぼう、と思いました。ゆきちゃんは、その後も興味がある物に指をさして、とってほしいとか、開けてほしいとか色々なことを伝えてきました。言葉で言わなくても、身ぶりでわかるんだな、と思いました。
 わたしは前の学校で、少しだけ手話を習いました。でも、使ったことはありませんでした。わたしが習った「まあるいいのち」という歌を、手話でしてみました。まだゆきちゃんは五才なので、全部はわからなかったけれど、「ありがとう」と手話で言いました。
 ゆきちゃんが通っているようち園では、「おはよう」の発音を習うときには、「お」の口の形、「は」の口の形、「よ」の口の形を見て、それぞれの舌の動きや息のはき方を見て、感じて、初めて「おはよー」と発音できるようになるのだそうです。
 それを聞いて、わたしは、ゆきちゃんはえらいな、すごいなと感心しました。でも、わたしは、最初はゆきちゃんにわかるように大きく口を開けて、おしゃべりをすることができませんでした。
 だから、もし今度ゆきちゃんやゆきちゃんのような人に会ったら、はきはきと口を大きく開けて、言葉を伝えたいと思いました。

第36回「小さな親切」作文コンクール入賞・入選作品-8

入賞【小学生の部】

「ありがとう!を広げたい」
山口県 白水小学校 四年 末弘朋也

 ぼくがしている小さな親切って何だろう。考えてみたけれど、なかなか思いつかない。ぼくがしてもらった小さな親切なら、思いつくのに……。
 だから、母や祖母に、
 「ぼくがしている小さな親切って、何がある。」
って、聞いてみた。
 一つ目は、祖母が教えてくれた。ぼくは小さいころから、エレベーターに乗るときは一番最初に乗って、他の人全員が乗ってくるまで、そしてエレベーターをおりるときには、みんながおりるまで、「開く」のボタンをおしているっていうことを。
 ぼくの祖母は少し足が悪いので、速く歩くことができない。だから、ぼくがしていたことが、祖母にとってはとても助かることだと教えてくれた。それを聞いて、ぼくが何も考えてなくてしていた行動が、祖母や足が悪くて速く歩けない人、小さい子どもにとって、よいことなんだと知り、ちょっとうれしくなった。
 二つ目は、次のようなことだ。ぼくと弟は、お父さんとお母さんが仕事のときは、祖母の家にあずけられる。以前のぼくは、母がむかえにきて帰るときに、母に言われて、祖父と祖母に「ありがとう」ってお礼を言っていた。だけど今は、母に言われなくてもお礼を言うようになった、と言われた。
 祖母は、ぼくが母に何も言われなくても、自分から「ありがとう」と言うようになったことを、とても喜んでくれている。祖母の気持ちは、ぼくにも分かる。ぼくも、他の人から「ありがとう」と言われたら、うれしい。
 だからこれからも、他の人から「助かったよ」や「ありがとう」と思ってもらえるように、小さなことでも続けてやっていこうと思う。
 そして、ぼくの弟の前で、こういった小さな親切をしたり、教えてやったりしたら、二人でできることも増えてくると思う。弟に、いろんないいことを教えてやることができる兄でいたい、と思う。
 これからも、ぼくの小さな親切の行動と「ありがとう」の言葉で、身近にいる人を温かい気持ちにできたら、こんなうれしいことはない。そして、その心が、他の人にもどんどん広がってくれることを願っている。

おつかれ様でした
山口県 由西小学校 五年 森本敦哉

 ぼくの母は滋賀県出身で、毎年、おぼんとお正月には滋賀に帰省します。滋賀にはいとこがいて、いつも会うのを楽しみにしています。特に、今年は大河ドラマのえいきょうもあり、安土城や小谷城の跡地へ行くつもりで、いつも以上に楽しみにしていました。
 真夜中に、車で山口を出発しました。下りはけっこうじゅうたいしていたけれど、上りはスイスイ進み、ぼくはずっとねていて、いつの間にか関西まで来ていました。都会は、じゅうたいでなくても車が多かったです。
 朝日がのぼり、明るくなりました。すると、車のナビが、「五キロメートル先、事故でじゅうたい十キロメートルです」と言いました。しばらく進むと、だんだんスピードが落ち、母が、
 「とうとうじゅうたい。いやだあ。」
と言いました。四十五分ぐらいノロノロ運転でした。
 「やっと休けいできるー。えらかったあ。」
と言いながら、サービスエリアに入りました。じゅうたいのせいもあって、サービスエリアに入るのもじゅうたいです。
 やっとけいび員さんにゆうどうしてもらい、車をとめました。母はずっと運転してきて、だいぶつかれているようでした。車をおりると、
 「おつかれ様でした。」
と、けいび員さんが言ってくださいました。それを聞いて、なんだかほっとしました。
 ぼくたちは朝ごはんを食べて、また車に向かいました。まだ朝日なのにすごくまぶしくて、車の中も、もう暑くなっていました。
 エンジンをかけてしばらく待っていると、さっきのけいび員さんが、
 「朝でも、もう暑いね。気をつけていってくださいね。」
と、声をかけてくださいました。母は、
 「ありがとうございます。」
と言い、にっこりしていました。
 「けいび員さん、大変やね。暑い中ずっと外で仕事して、それでも『お疲れ様』と言ってもらえると、うれしいね。」
と母が言い、ぼくもそうだなあと思いました。
 けいび員さんは、暑そうなせい服を着て、照りつける日差しの中をずっと立っておられます。それなのに、ドライバーのことを気にかけて、声をかけてくださっているのです。つかれやじゅうたいで、いらいらしている気持ちがほっとするのは、ぼくたちだけではないと思います。
 よく聞く「おつかれ様」ですが、今回聞いた「おつかれ様」は、すごく心に残る言葉でした。こういう言葉がもっと増えると、みんなの気持ちがうれしくなっていいなあ、と思います。
 ぼくも人のことを思いやって、うれしい言葉をもっと使いたいなあ、と思いました。

気づく心、気づかう心
山口県 東陽小学校 六年 大室咲月

 スーパーに行ったとき、車いすに乗ったおばあさんが、タイヤを回しながらカートを押しているのを見かけました。
 売り場の通路には、ワゴンや段ボールが置かれていて、そのおばあさんは通れずにいました。それを見たお父さんが、広い通路までカートを押してあげました。その後も、またおばあさんが通れずにいるのを見かけたので、お父さんは、
 「大丈夫ですか。手伝いましょうか。」
と声をかけました。すると、
 「ありがとうございます。ちょうど頼もうと思ったんだけど、店員さんが見当たらなかったので、どうしようかと思っていたところだったの。」
と言われたので、お父さんはカートを押してあげて、私は、おばあさんが欲しいものを取ってあげました。高いところのものは、取れないからです。また、カートや車いすがぶつかって落ちた商品も拾いました。そして、レジまで連れて行ってあげたら、おばあさんは、
「ご親切にありがとうね。車いすは大変なのよ。すごく助かったよ。」
と、何度もお礼を言ってくれました。
 私は、お父さんと行動することが少ないので、困っているおばあさんを見かけて、すぐに走って行ったお父さんを、すごく尊敬しました。私も、お父さんが手伝っている姿を見て、動くことができました。
 自分ひとりだけだったら、気にしながらも手助けできなかったかもしれません。でも、助けてもらいたかったというおばあさんの言葉を聞き、これからは周りの様子をうかがわずに、お父さんみたいに率先して、「大丈夫ですか。何か手伝いましょうか」と、声をかけようと思いました。
 私は、総合学習の時間に、車いすに乗る体験をしました。少しの段差でも上ることができず、かなり助走が必要だったり、小さな隙間にタイヤがはさまりやすく、車いすの動きをコントロールするのはとても難しい、と感じました。
 だから、スーパーなどのお店では、せっかくの広い通路を妨げるワゴンの置場には、特に気を配ってほしい、と思いました。バリアフリーが一般的になってきているように見えるけれど、まだまだ人の気づかう心の必要性を痛感しました。
 私自身も、いろんな立場や角度から物事を見ることができるように、気を付けたいです。そして、頭で考えるばかりでなく、行動に移せるようになりたいです。

親切でやさしい気もちに
香川県 筆岡小学校 三年 吉﨑 晴

 わたしは、のうせいまひがげんいんで歩けません。学校では、車いすを使っています。
 朝は、お父さんが車で学校に連れて行ってくれます。ちゅう車場に着いたら、車いすでかいだんの所まで行って、そこからは、手すりにつかまって自分で上ります。お父さんは、かばんをもちながら、わたしがかいだんを上るのを見守ってくれています。
 そのときに、上きゅう生や友だちや先生が、
 「かばんをもつよ。」
と言って、教室までもって行ってくれます。
 朝の会やじゅぎょうのときには、プリントや学習ノートを友だちが運んでくれます。となりの友だちが、もって行ってくれるときもあれば、ほかの友だちが来て、もって行ってくれるときもあります。男の子が、もって行ってくれるときもあります。
 また、えん筆や消しゴムを落としたときには、ひろってくれます。みんなが、しんせつにしてくれます。
 休み時間には、友だちがさそってくれたり、わたしがさそったりして、運動場にあそびに行きます。そして、ボール投げをしたり、てつぼうをしたりしてあそびます。そのときも、友だちや先生が車いすをおしてくれます。
 帰りの会のときにも、わたしが言わなくても、だまってさっとかばんをもって来てくれる友だちもいます。
 わたしは、学校にいる間に、友だちや先生にいろいろなことを助けてもらっています。そんなときは、とてもうれしいです。でも、ちゃんとお礼を言えないときがあります。
 あるとき、そんな友だちに、運動会で一生けんめいおうえんしたり、消しゴムや色えん筆をかしてあげたりしました。すると、友だちから、
 「ありがとう。」
と言ってもらえました。とてもうれしい気もちになりました。わたしにも、みんなのためにできることがあるんだなあ、と思いました。
 わたしは、できないことがみんなより多いけれど、やさしくしてもらったら、ちゃんとお礼を言って、わたしのできることでおんがえしをしたい、と思います。
 親切とは、人がこまっていたら助けてあげることだと思います。助けてもらったら、「ありがとう」とお礼を言います。そうしたら、助けた人も助けられた人も、うれしくなって心があたたかくなると思います。やさしい気もちになれる気がします。
 わたしは、友だちや先生に助けてもらうことが多いけれど、親切にしてもらったときは、ちゃんと「ありがとう」とお礼を言って、かんしゃの気もちを伝えていきたいです。
 そして、わたしにも、友だちのためにできる親切は何か考えて、たくさんしていきたいです。そして、友だちともっとあそんだり、話をしたりして、なかよしの友だちをふやしたいです。
 そうすれば、学校へ行くのが、もっともっと楽しくなると思います。

「お守り」が教えてくれたこと
香川県 太田南小学校 五年 赤坂有友加

 学校の帰り道、友達と別れて一人で家まで帰ると中、「キラッ」と何かが光りました。私は、何だろう?と思って、近づいてみました。それは、青色の「お守り」でした。(どうしてお守りがこんなとこに?)と思いながら、拾いました。
 そして、母の、「お守りは、とっても大切なの。だから、ぜっ対にそ末にしてはいけない。」の言葉を思い出し、家にランドセルを置き、まだ仕事から帰っていない母に、(交番に行ってきます)とメモを書いて、家を出ました。
 ハンカチに包んだお守りを、ギュッとにぎり、家から一番近い交番へ急ぎました。母の言葉を、何度も何度も思い出しながら……。
 おまわりさんにとどけて帰るとき、私の父より少し年上のようなおまわりさんが、
 「良いことをしたね。落とし主さんが見つかるまで、大切にするからね。」
と言いました。
 「ただいま。」
と言いながら家に入ると、母が、
 「おかえり。」
と言いながら、夕食のしたくをしていました。母のそばで宿題をしている私に、
 「親切なおまわりさんやね。家の人が心配しないよう電話をくれたよ。それに、『とっても優しい娘さんですね。帰ったら、ほめてあげて下さい』って。ママもうれしいわ。優しい心を持って育ってくれて。」
と言って、ハグしてくれました。私も、うれしい気持ちでいっぱいになりました。
 「お守り」のことを忘れかけていたある日。家に、電話がかかってきました。電話は、お守りを落とした人からでした。どうしてもお礼が言いたくて、近くまで来ている、という電話でした。
 少しして、チャイムがなりました。戸を開けると、おばあさんとお姉さんが、立っていました。母は、
 「どうぞ、あがって下さい。」
と言いました。母がそう言った理由は、すぐ分かりました。おばあさんは、つえをついていて、お姉さんが支えていたからでした。
 「お守り」は、おばあさんの孫のお姉さんが、病気を治すために手術するおじいさんのために、買ってきたこと。おばあさんが、お守りを病院にとどける途中で落としたのだと分かりました。
 落としたことに気付いたおばあさんは、落としたと思う場所で、かい中電灯を使って探していたとき、おまわりさんに出会い、交番にとどいていると知ったそうです。
 「すぐにお礼に来なくて、ごめんなさいね。おかげで、手術も無事すみました。」
と、おばあさんが言ったので、私も母も、安心しました。
 おばあさんとお姉さんを見送りながら、とってもあたたかい気持ちになりました。それは、思いやる心、親切、感しゃの心は、つながっていることを知ったからです。

ぼくにもできる
香川県 筆岡小学校 六年 石川倫久

 いつものぼくは、ふざけることが多いし、しかられることも多い。そんなぼくが、めずらしくお母さんにほめられた。
 ぼくは、剣道に通っている。その日は練習がある日で、学校からの帰り道は急いでいた。すると、道のはしの方にすわりこんでいるおばあさんを見かけた。おばあさんは、足を痛めていた。ぼくは、そのおばあさんを見たとき、初めは何とも思わなかった。でも、
「ちょっとぼく……。」
その声に、ぼくは足を止めた。何となく知らん顔をして、通り過ぎることができなかった。おばあさんの近くに行くと、おばあさんがぼくに事情を話してくれた。病院の帰りにタクシーから降りたら、転んだこと。一人で立ちあがれず、こうやってすわっていること。何人もの人が、通り過ぎて行ったこと。
 ぼく一人の力ではどうにもならないと思ったので、大人の人たちの助けを求めることにした。何人かの大人が通ったけれど、ぼくとおばあさんを見ても、見ないふりをして通り過ぎて行った。とてもさみしかったし、何で気づかないふりをするんだ、と腹も立った。
 ぼくは、もう自分で何とかするしかないと思い、自力でおばあさんを立ち上がらせることにした。おばあさんのうでを、何度も引っ張った。何回かちょう戦しているうちに、おばあさんは立ち上がることができた。
 ぼくは、かさを持っていたので、それをつえ代わりに使ってもらった。道に落ちていたおばあさんの荷物も拾って、おばあさんの家まで送ることができた。急いで帰っていたはずなのに、急いでいたことをすっかり忘れていた。
 家では、ぼくの帰りを心配しながら、お母さんが待っていた。ぼくがしたことを話したとき、お母さんがほめてくれた。ぼくは、自分でもいいことをしたな、とうれしくなった。
 何日かして、そのおばあさんが、学校にお礼の電話をかけてくれた。おばあさんが、わざわざ学校に電話をかけてくれたことに驚いた。
 校長先生が、始業式で、
「心を形に表していきましょう。」
とおっしゃったことを思い出した。話を聞いたときは、なかなか難しいことだなあと思っていた。
でも、おばあさんを助けることができたのは、見て気づかないふりをしないという、ちょっとしたことだった。そんなちょっとしたことでも、その気持ちを形に表せたら、人が喜んでくれるような優しいことができるのだなあ、と思った。
おばあさんは、ぼくの「気をつけて」という言葉にも、喜んでくださったらしい。そんなちょっとした言葉も、心で思うだけでなく、言葉に出すことで、相手に伝わりうれしくすることができるんだな、と思う。
心を形にすることは、難しいことではない気がした。でも、今までのぼくは、そのちょっとしたこともせずにいた、と思う。
これからは、喜んでくれたおばあさんのことを思い出して、ちょっとしたことでも、優しい気持ちを形に表していきたい。

わたしのした「小さな親切」
徳島県 佐那河内小学校 三年 谷渕愛梨

 「こっちだよう。」
 「うわ。おにが来たあ。」
 「にげろお。」
 「つかまるよう。」
 二時限目の休み時間は、いつも三年生のみんなと、おにごっこをしてあそんでいます。でも、その日は、一年生の何人かもいっしょにあそんでいました。
 そのとき、一年生の女の子が、おにからにげようとして、池の近くでころんでしまいました。おにの子は、「だいじょうぶ。」とたずねて、女の子がうなずいたように思えたのか、そのままほかの子をおいかけはじめました。
 わたしも、少しはなれた所から見ていましたが、おにがおいかけてきたので、ふりきろうとダッシュしました。でも、ふりかえって見ると、女の子はころんだままでした。それに、大きな声でないています。
 「たいへんだ。だいじょうぶかなあ。」
 おおいそぎで、かけよっていきました。女の子は、右の足のひざをすりむいていました。
 「前をよく見ていなかったので、だんの所でつまずいてこけた。」
と言いました。けがをしている足を見ると、かわがめくれていて、白く小さな石のような物がはいりこんでいるようでした。
 「少しいたいかもしれないけれど、とってみてもいい。」
と聞いてみると、「うん。」と言ったので、わたしはとってみました。やっぱり石でした。すごくいたそうだったので、水であらって、保けん室につれて行きました。
 女の子は、いたそうだったので、手をそえてゆっくり歩いて行きました。げんかんの所では、すわらせて、くつをぬがせてあげました。
 「あとちょっとやけん、がんばりよ。」
と言うと、女の子は、「うん。」と言って、ちょっぴりなきやんできました。保けんの先生が、
 「ありがとう。やさしいね。」
と言ってくれました。親切にできてよかった、と思いました。チャイムがなったので、わたしはいそいで教室にもどりました。
 でも、三時間目の国語がはじまっても、女の子のことがしんぱいでたまりませんでした。先生が本を読んでくださっても、なかなか頭にはいりませんでした。三時間目の休み時間に、保けん室に見に行きました。
 けれどいなかったので、一年生の教室に行ってみると、女の子がもどっていました。右足には、大きなガーゼがはってありました。近くに行って、「だいじょうぶ。」と聞くと、「うん。ありがとう。」と言ってくれました。ホッとしました。
 次の日、一年生の女の子に会うと、
 「だんだんいたくなくなってきたよ。」
と言ったので、わたしは安心しました。大きなガーゼはなくなっていて、きずは、かわいていました。女の子はニコニコしていたので、うれしくなりました。
 これからも、こまっている人がいたら、たすけてあげたいです。

バスの中で
徳島県 徳島文理小学校 六年 岡山奏美

 私の家は、小学校から十キロ以上離れている。母の仕事の関係で、一ヶ月の五分の一くらいは、バスで帰る。
 ある春の暖かい日。この日も母は忙しく、バス帰りとなった。バスの中は満席で、重いランドセルをしょっていると、うまくバランスがとれない。友達と私は、幸いにも空席を見つけ、すわることができた。
 バスにゆられると気持ちよく、ついうとうとしてしまう。友達が話しかけてきたので、少しずつ目が覚めて、すっかりおしゃべりに夢中になった。私たちは、乗り口近い二人用の席だった。
 しばらくすると、おじいさんとおばあさんが乗ってきた。おばあさんは、少し弱々しそうに見えた。おじいさんが気づかっているのが、わかったからだ。二人が乗ると、バスはすぐに発車した。一瞬、おばあさんの足が、ふらついたように見えた。私は、笑顔で話している友達に、
 「あそこのおじいさんとおばあさんに、席をゆずってあげようよ。」
と、勇気を出して言ってみた。すると、友達は、
 「えー。立つの面倒じゃん。今日のランドセルは特に重いし。」
とためらった。たしかに、今日は七時間まであったから、ランドセルはめっぽう重い。
 「そんなことどうでもいいの。おばあさんがこけたら大変だよ。ほら早く。」
と、無理矢理説得した。私だって、このまますわっていたい。でも、そんなことをしてはいけない。そういうことを、心の中で考えていた。友達は口をとがらせて、それでもしぶしぶだが協力して、席から立ち上がってくれた。
 「席を代わります。おすわり下さい。」
 私は、できるだけていねいに言ってみた。おじいさんは、私たちの方へおばあさんの手をとって伸ばしながら、
 「ありがたいねえ。」
と言ってくれた。
 それから、おじいさんは、またおばあさんを気づかいながら、私たちが空けた席にゆっくりと腰かけた。おばあさんも目を細くして、少し頭を下げながら、席にすわった。私たちのおしゃべりは、さっきよりも小さい声で、重いランドセルに逆らうように前かがみの姿勢で続いていた。
 四つくらいバス停を通り過ぎたバス停で、おじいさんたちは、降りていった。今度は何も言わずに、でも優しい笑顔で、頭を下げてくれた。バスから降りた二人を、まどから見ると、小さく手をふってくれていた。バスは、静かに発車した。
 「ほんの少しのことだけれど、何だか人に親切にするって、気持ちいいね。」
 さっきまで面倒くさがっていた友達が言った。私も、さわやかな気分で言った。
 「うん。いろんな親切ができるといいね。」
 バスは、軽やかに終点駅へ走り続けた。

第36回「小さな親切」作文コンクール入賞・入選作品-7

入賞【小学生の部】

「いい気分」を広げよう
大阪府 福島小学校 六年 駒谷渚乃

 「やっといてあげたからね。」
 これが、私の口ぐせだった。とても恩着せがましくて、えらそうな言い方だ、と今は思う。
 私の双子の弟は、折り紙や将棋、絵が上手くて、何事にも手を抜かないきっちりとした性格だ。でも、片付けが下手で、行動が遅く、要領が悪い。せっかちな私は、そんな弟を見てついイライラしてしまう。
 二人で分担してやる食事の準備などのお手伝い、お母さんに頼まれるごみ出しやおつかい、弟の雑然とした机や棚の整理。私は、それを率先して引き受けて済ませ、その都度、弟に得意げな顔で、
 「やっといてあげたからね。」
と、声をかけた。自分から引き受けておきながら、「なんで私が」なんて思うこともあったが、「やってあげた」という満足感で良い人になった気分になり、気持ちが良いので、このお節介を続けていたのかもしれない。
 そんな私の考え方を、変えてくれた出来事があった。家族で銭湯に行くことになったその夜、出かけたついでに別の用事を済ませに行った両親を、にぎやかな駅前で弟と二人で待っていた。
 ティッシュ配りのお姉さん、酔っぱらったおじさん、色々な人がいるなあ、と行き交う人たちを見ていたら、塾帰りらしき男子高校生が、そばの自転車置場から自分の自転車を抜き出した拍子に、両脇にとめてあった自転車を、まるでドミノのように倒してしまったのが、目にとまった。
 「あっ。」と、その高校生や、私と弟も小さく声をあげた。倒れた四台の自転車。高校生はそれをチラッと見て、フッとため息をついたと思ったら、その場をそのまま去ってしまった。自分より幼い私たち小学生がしっかり見ているのだから、ちゃんと先輩らしく、マナーぐらい守ればいいのに。
 少しの間あきれていると、その場面を見かけた若い会社員の男性が、自転車置場にスルリと近づいてきた。そして、倒れた自転車をサラリと一台一台起こし始めた。中にはストッパーがこわれている自転車もあった。
 男性は起こすのに苦戦して、そばで尊敬のまなざしで見ていた私に、「困ったな」というふうに苦笑して、やっと立った四台の自転車を満足げに見て、軽やかに去って行った。
 私と弟は、その胸がじんわりとするあたたかい出来事を、用事を済ませて戻ってきた両親に、「さっきね……。」と話した。
 こんなちっちゃなことだけれど、私は大きなことに気づいた。「親切」とは、相手のために「いい気分」を広げること。以前の私みたいに、自分だけいい気分になって終わらせることではない。
 あの会社員の人がしてくれた爽やかな「小さな親切」は、私に「いい気分」をくれて、「大きな親切」のお手本を示してくれた。今度は私が、鼻歌を歌ったりして、さりげなく親切ができる人になりたい。

やさしいおにいちゃん
鳥取県 福部小学校 一年 綾木里桜

 なつやすみに、わたしは、おかあさんとおにいちゃんといっしょに、であいのもりにあそびにいきました。であいのもりには、いろいろなあそぶばしょがあり、わたしのだいすきなばしょです。あすれちっくは、とくにすきで、よくあそびにいきます。
 であいのもりのあすれちっくで、おにいちゃんとはしりまわってあそんでいると、わたしのぞうりがやぶれてしまいました。ぞうりは、ひもがちぎれて、もうはくことができません。
 しかたがないので、はだしであるいてかえろうとおもってあるきだすと、じめんがとてもあつくて、ふつうにあるくことができません。わたしが、
 「あつっ。あつっ。」
と、とびはねました。そうしたら、三ねんせいのおにいちゃんがやってきて、
 「りお、おんぶしたるわ。」
といって、くるまがとめてあるところまで、おんぶしてくれました。おにいちゃんは、とってもあついし、おんぶしておもいので、あせをいっぱいかいていたけれど、わたしのためにがんばってくれていました。
 わたしは、おにいちゃんが、じぶんもあつくてたいへんなのに、わたしのためにやさしくしてくれて、とってもうれしかったです。おにいちゃんにこころをこめて、
 「ありがとう。」
といいました。おにいちゃんは、すいとうのおちゃをごくごくのんで、
 「いいで。」
と、わらっていいました。
 わたしは、あつくておもいのに、じぶんからおんぶしてくれたおにいちゃんは、ちからもちでやさしくて、すごい、とおもいました。
 さらにそのあとに、「えらい」とか、「おもい」とか、よわねをちっともはかずに、やさしく「いいで。」といってくれたことが、いちばんすごい、とおもいました。

思いやりのぎょうれつ
島根県 神戸川小学校 三年 高橋茉綾

 夏休みのある日、家族で買い物へ出かけました。買い物の帰り道、車に乗っていたら、いきなりお母さんがさけびました。
 「たいへん!だれか、たおれてる。」
 お母さんがゆびさした先には、道路のはじっこに、おばあさんがたおれていました。私はビックリ!本当にたいへんです。私の心は、どうしようとあせっています。
 いそいで車を道路のはじっこに止めて、お母さんと私のおばさんは、たおれているおばあさんの所へ走って行きました。私も、走って後について行きました。
 たおれているおばあさんに近よると、お母さんと私のおばあさんは、
 「だいじょうぶですか。どこかいたいですか。」
と、かわるがわるに声をかけました。私は、「だいじょうぶ?どうしたの」と、心の中でさけびました。でも、声に出して言えません。
 たおれているおばあさんをよく見ると、どこもけがはなく、どこかいたいわけでもなく、自分の手をまくらにして小さく丸くなって、目をパチパチしながら横にねていました。くつも、はいていません。「えっ、どういうこと」。私はふしぎな気持ちになりました。そのときです。
 「どうしました?」
 一人の男の人が、車を止めて、私たちの所に走って来ました。お母さんとその男の人は、たおれているおばあさんは、にんちしょうという病気で、自分の家を出て、帰る道や家がわからなくなり、今いる所が自分の家だと思い、ねているんじゃないか、と話していました。私は、そんな病気があることをはじめて知り、おどろきました。
 自分の名前や家、すべてがわからなくなるなんて、とても悲しいことです。私だったら、不安で心がいっぱいになり、ずっと泣いているにちがいありません。
 「だいじょうぶですか?」
 今度は女の人が車を止めて、やって来ました。また一人、また一人とどんどん人がやって来ました。
 ふと、道路を見ると、心配した人たちの車の行れつができていました。私は、その車の行れつを見ていたら、なんだか心が温かくなり、ふんわりした気持ちになりました。
 「おばあさん!こんな所におったかね。」
 たおれているおばあさんの家族が、人だかりを見てやって来ました。
 「本当にご心配をかけて、すみません。」
 家族の人は、何度も私たちに頭を下げて、おばあさんを連れて帰って行きました。「あー、よかった」。私はとても安心しました。
 でも、「だいじょうぶですか」と心の中で思うだけで、ただ、だまって立っていることしかできなかった自分を、はずかしく思い、自分にだんだんはらが立ってきました。
 もし、自分だったら、だまって立って見ていられるより、「だいじょうぶ」と、一言でも声をかけてほしいからです。
 私は、思いやりの行れつを見ました。そのとき私は、おばあさんに声をかけてあげることはできなかったけれど、そのときの思いを忘れずに、今度は私も、お母さんたちのように思いやりの行れつにならぼう、と心から思いました。

あこがれの「班長さん」
島根県 和田小学校 六年 長山明香里

 私の家から学校までは、歩くと一時間以上かかります。だから、途中までは、家の車で送ってもらいます。
 小学校に入学する前に、母と一緒に学校まで歩く練習をしたことがあります。途中には、犬のいる家がありました。私はそのころから、犬を見ただけで大泣きしてしまうくらいに大きらいでした。私は、母に手をつながれていても、泣きながらその家の前を通りぬけました。学校は楽しみでしたが、あの家の前を通るのはいやだな、と思っていました。
 入学して最初の集団登校日のことです。集合場所までは、父に車で送ってもらい、そこから班長さんたちと一緒に歩いて行きました。犬のいる家が近づいてきます。私の心臓は、どきどきです。「ワンワン」、やっぱり泣いてしまいました。
 そのときです。班長さんは私の手を握り、他の人たちは、私に犬が見えないように囲んでくれました。「がんばれ。」と声をかけてくれ、それでも私は泣いていましたが、なんとか犬のいる家の前を通ることができました。
 それからは、毎日行き帰りも、その家の前を通るときには、みんなが私をガードしてくれました。それに、いつの間にか犬の飼い主さんが、犬を通りから遠いところにつないでくださるようになり、二年生になるころには、泣かずに通り過ぎることができるようになっていました。
 私は今、六年生になり、登校班の班長です。今年は、男の子が一人、私たちの班に入ってきました。元気な男の子なので、犬をこわがるようなことはありませんが、なかなか私の言うことをきいてくれません。そして、ついにこの前、
 「速く歩いて。」
と、きつくしかってしまいました。そのとき、その子が悲しそうな顔をしていたのが気になっています。
 そういえば、私が一年生のときも歩くのが遅くて、班長さんが私のことを待ってくれたり、手をつないでくれたりしたことを思い出しました。あの班長さんは、私のあこがれです。班長さんと一緒だったら、安心できました。
 明日の朝、一年生の男の子にあったら、手をつないで一緒に歩こうと思います。そして、いつかは『あこがれの班長さん』のようになりたい、と思います。

忘れてはいけないこと
岡山県 琴浦北小学校 五年 黒杉涼葉

 私の家の二軒となりに、本当のひ孫のようにせっしてくれる、おじいちゃんとおばあちゃんがいます。だけど、去年の十二月、おじいちゃんが突然亡くなりました。
 学校から帰ると、お母さんが、
 「となりのおじいちゃんが、亡くなられたんよ……。」
と、しんみりした感じで言いました。
 私はびっくりして、いろいろなおじいちゃんとの思い出が頭に浮かんできました。作文で賞をとったときも、新聞の片すみに私の名前がのったときも、いつも家族のように喜んでくれました。
 七五三のとき、とった写真を見せに行くと、
 「かわいくとれてるねえ。」
とほめてくれました。
 亡くなられる一週間ほど前にも、おじいちゃんに、
 「おはようございます。」
と言うと、
 「おっはよう!」
と、とても元気に挨拶をしてくれました。
 そんなおじいちゃんとの突然のお別れでした。学校があるために、どうしてもおそう式には出られなかったので、お通夜に出席させてもらいました。ひつぎの中にいるおじいちゃんを見てみると、スーツを着ていてとてもかっこ良かったです。今にも起き上がって、「おお、すーちゃん、あめいるか?」と、言ってくれそうでした。
 お通夜のとき、おばあちゃんはぼう然としていました。みんな悲しかったけれど、一番悲しかったのは、おばあちゃんだと思います。おじいちゃんとおばあちゃんは、とても仲が良かったので、私はとても心配でした。
 おばあちゃんの娘さんやお孫さん、ひ孫さんは大阪に住んでいらっしゃるので、おばあちゃんは一人ぼっちになってしまいました。
 私は、おばあちゃんに出来ることはないか、と考えました。でも、私には特別なことも出来ないので、いつも通りにあいさつをしたり、無理を言って浴衣を着せてもらったり、おじいちゃんが生きていたころと同じように甘えています。
 おばあちゃんは、私に、
 「ひ孫のような子だから、私の出来ることはえんりょしないで言っておいで。」
と言ってくれます。なので、私も自分に出来ることはなんでもしてあげたい、と思います。
 私の近所には、本当に親切にしてくれる人たちがたくさんいて、私たちはとてもめぐまれています。お父さん、お母さんに育ててもらっているのは当たり前ですが、近所の人にも、私たちは育ててもらっているんだ、と思います。私はしっかりとみんなからの親切を感じながら、私の出来る恩返しが出来たらと思っています。
 みなさん、ずっと元気で長生きしてください。

ぼくのマッサージ
広島県 三幸小学校 一年 半田哲大

 ぼくは、なつやすみのあいだ、おじいちゃんとひいおばあちゃん、おばあちゃんとおとうさんに、マッサージをしました。
 おじいちゃんのあしは、おおきくて、ふとくて、かたくて大変でした。
 おばあちゃんは、やわらかくて、ふんわりしていました。
 おとうさんのせなかは、おおきくて、あしがつよくて、おしごとがたいへんなんだなあ、とマッサージをしました。
 みんな、きもちがいいといいました。
 ひいおばあちゃんは、八十二さいです。いまも、はたけで、とまとやきゅうりをそだてています。だから、ぼくのマッサージは、とてもよろこばれます。
 ぼくも、よろこんでくれてうれしいです。
 いまは、ちからがすこしよわいけれど、がんばってつよくなりたいです。
 そして、もっとマッサージがじょうずになって、みんなをもっとよろこばせたいです。

わたしのひょうしょうしき
広島県 多治米小学校 三年 森田ひより

 わたしは、去年の夏休みにかいた絵で、しょうをもらいました。秋に、そのひょうしょうしきが広島市であるのを、先生から聞きました。
 わたしは、広島市に行ったことがなかったので、「どんなところかなあ。行きたい」と、思いました。お母さんもまだ二回しか行ってないので、
 「ひよちゃんのおかげで広島に行けるし、大きなホールでひょうしょうされるなんて、一生に一回しかないかもよ。」
とよろこんでいました。わたしは、「すごいことなんだなあ」とうれしくなりました。
 だから、みんなで行って、ひょうしょうしきを見ることにしました。けれど、お父さんは、
 「車は、じゅうたいになったら、式に間に合わないかもしれないよ。」
と心ぱいしていました。
 朝早く出発しました。けれど、高速道路で事故があって、車がカメのようにのろのろとしかすすめなくなり、大じゅうたいになってしまいました。
 「どうしよう、式がはじまっちゃう。新かん線にしとけばよかったね。ごめんね。」
と、お母さんがかなしそうに言いました。車の中がシーンとして、くらいかんじになりました。わたしはこんなときに、「どこでもドア」があったらなあ、と考えていました。
 着いたときには、式がおわって、ホールからみんなが出てきていました。車の中かれんらくしていたので、係のお姉さんが、わたしのしょうじょうをもってまっていてくれました。わたそうとして、
 「そうだ。かん長さんに、しょうじょうを読んでもらおうか。」
と言って、わたしたちを、かん長室につれて行ってくれました。そこで、わたしだけのひょうしょうしきが、はじまりました。しょうじょうを読んでもらって、記ねん品をわたしてもらって、
 「おめでとう。これからもがんばって、いい絵をかいてくださいね。」
と言ってもらいました。わたしはきんちょうして、お礼を言うのをわすれそうでした。
 そつ園式でならったように、もらったしょうじょうを高く上げて、くるっと回りました。後ろにいた家族みんなが、わらっていました。
 となりのへやでしごとをしていたしょくいんさんたちが、しごとをやめて立ちあがって、わたしにはく手をしてくれました。それにはびっくりして、はずかしかったけれど、とてもうれしかったです。
 わたしのひょうしょうしきは、かん長さんや、そこでしごとをしている人たちの親切のおかげで、思い出にのこるものになりました。
 はじめての広島市も、大すきになりました。また、会いに行きたいです。

心のぬくもり
広島県 来見小学校 六年 馬屋原陵汰

 夏休みのある日、ぼくは、母と病院に出かけた。虫に刺された腕が、ひどくはれて赤くなったからだ。
 病院に着くと、母は受付でぼくの症状を説明した。その間、ぼくは待合のいすに座っていた。少し落ち着いたので、周りを見るよゆうが出てきた。
 とにかく、お年寄りの人が多かった。座って順番を待っている人、支払いを待っている人、つえをついている人、車いすに乗っている人、シルバーカーという押し車を押している人という具合だ。
 そんなお年寄りの人を見ながらも、ぼくは自分の腕の虫さされが、どんな治療をされるのか、とても不安だった。かゆくて痛くてたまらなかったが、名前を呼ばれるまで、診察室の前で座って待っているしかない。
 しばらく待っていると、ぼくのとなりに、少し腰の曲がったおばあさんが座った。看護師さんとのやりとりで、そのおばあさんは耳が遠いことが分かった。
 「血液の検査がありますよ。」
 看護師さんは、おばあさんの耳元で大きな声で説明していた。ところが、聞こえなかったのか、おばあさんは説明の後もいすに座ったままだった。看護師さんはといえば、忙しそうに行ったり来たりしている。
 すると、突然ぼくの前に身を乗り出した母は、
 「血を採るんだって、言われましたよ。」
と、耳の遠いおばあさんの肩をトントンとたたきながら言った。
 「そう言ったかね。ありがとう。」
 おばあさんは、そう言って席を立った。
 だまって様子を見ていたはずの母の行動力に、ぼくは、自分の腕の痛みを忘れてドキドキした。それなのに母は、ぼくのとなりで、何もなかったような顔をして座っている。
 結局、ぼくは、診察してもらった内容をほとんど覚えていない。それほど母の行動が、すごかったからだと思う。
 そんなことを考えながら会計を待っていると、つえをついたおばあさんが会計に呼ばれた。おばあさんがお金を出そうとしたとき、その手からつえが床に転がってしまった。ぼくは、なぜか体がすぐに動き、つえを拾い、おばあさんに手わたした。
「ありがとう。」
 おばあさんに言われ、振りかえると、母の顔がニコニコとぼくを見ていた。
 そのとき、ぼくは腕の痛みを忘れ、心があったかくなるのを感じた。

第36回「小さな親切」作文コンクール入賞・入選作品-6

入賞【小学生の部】

ねこをかってよかった
岐阜県 稲羽西小学校 三年 奥村健太郎

 ぼくの家には、ねこが二ひき、おばあちゃんの家に一ぴきいます。このねこは、きょ年ひろいました。
 夜中に、家のうらのドブから、
 「ニャーニャー。」
と、泣き声が聞こえてきました。お父さんとお母さんが、まっくらな中、かい中電とうをもって、ないているねこをさがしに行きました。そうしたら、水がながれているドブに、小さな子ねこが一ぴきはまって動けなくなっていました。
 お父さんがたすけてあげると、ブルブルとふるえていて、ドロだらけでした。お母さんとお姉ちゃんは、ねこがにがてです。でも、まだ生まれたばかりの小さなねこで、ブルブルふるえていたのでかわいそうで、きれいにあらって家の中に入れてあげました。
 ぼくは、このねこはお母さんとはぐれてしまったのかな、とかわいそうでした。ぼくはねこがすきなので、家でかってあげたいな、と思いました。
 そうしたら次の日、庭に二ひきの子ねこがやってきました。大きさもドブでひろったねこと同じで、ぼくは、兄弟だと思いました。まわりを見ると、お母さんねこはいなくて、人間もこわがらずによってきます。ぼくは、お父さんに、
 「このねこもかってあげよう。」
とたのみました。でも、お母さんは、
 「ぜったいにだめ。」
とゆるしてくれませんでした。でも、二ひきのねこは、庭から出て行こうとしなくて、
 「ニャーニャー。」
とずっとないていました。ぼくは、おなかがすいたかなと思って、かわいそうでした。
 そうしたら、おばあちゃんの家の犬がしんだばかりでさみしそうだったので、おばあちゃんに、
 「ねこ、ほしい。」
と聞いてみました。おばあちゃんは、
 「いいよ。」
と言ったので、ぼくの家で二ひき、おばあちゃんの家で一ぴき、かうことにしました。ぼくは、すごくうれしかったです。
 おばあちゃんの家のねこは、チャチャという名前です。一番おとなしいねこをあげたのに、今では一番きょうぼうです。この前、おじいちゃんが亡くなって、おばあちゃん一人になってしまったのでさみしそうだけど、おばあちゃんはまい日ねことけんかしています。でも、楽しそうです。ぼくは、ねこをひろってよかったな、と思います。 
 ぼくの家のねこは、フー、アーといいます。お母さんは、ねこアレルギーがあるのに、フーはお母さんが大すきみたいで、いつもお母さんにくっついています。お姉ちゃんも、ねこが大すきになりました。犬のロンともなかよしです。
 ねこは、へんなかっこうでねます。みんな、ねこを見るとわらいます。おこっていたお母さんも、わらいます。ぼくは、ねこをかってよかったな、と思います。長生きしてほしいです。

「ありがとう」の言葉から
岐阜県 荒崎小学校 四年 北島成愛

 私の家には、八十才になるおじいちゃんがいます。夏休みに入る前には元気だったおじいちゃんが、急にたおれて、病院に入院しました。
いつもは軽トラに乗って出かけたり、畑や田んぼの仕事をほとんど一人でがんばっている元気なおじいちゃんなので、病院でじっと目をつむって点てきをしてねているおじいちゃんは弱っていて、まったくちがう人のようでした。私は、早くよくなってほしいな、と思いました。
十日くらいたって、少しよくなってきたおじいちゃんは、退院してきました。でも、まだふらふらで、つかまってしか歩くことができません。ねたり起きたりして、自由に動けないので、家族全員でおじいちゃんのお世話をすることになりました。
私はお母さんと相談して、毎朝うらの井戸からつめたい水をポットに入れてくることと、おじいちゃんは日記に毎朝の気温と天気をつけているので、それを調べて伝えるのをつづけることにしました。両親も仕事をしていていそがしいので、私が気付いたことを進んでやってあげたい、と思いました。
はじめはがんばっていた私ですが、何日かたつと、ポットは重くてつかれるし、おじいちゃんは自分が動けないので、一日に何回も用事で私をよぶので、くじけそうになったり、仕事を忘れてしまうこともありました。でも、おじいちゃんは私や家族が何かしてあげる度に、
「ありがとうね。すまないね。」
と言ってくれるようになりました。入院する前は、いつも大きな声を出していばっていたのに、みんながやさしくしてあげて、私たちの早くよくなってほしいという気持が伝わったんだな、と思い、私も一度決めた仕事はがんばって続けようと反省しました。おじいちゃんに、
 「ありがとう。」
と言われると、やってよかったなと思うし、またこんどもよいことをしたくなる気分になります。ありがとうの言葉は、言われた人も、言った人も心がきれいになる、まるでまほうみたいな親切な言葉だなと、私は思いました。
 退院して何日かたつと、おじいちゃんは、つかまらなくても歩けるようになりました。早くよくなりたいと思って、一生けん命練習していたからだと思います。部屋で一人でねているとさびしいので、私はおしゃべりの相手をしたり、一しょにおやつを食べたりして、なるべく声をかけてあげました。おじいちゃんは、
 「なるちゃんがやさしくしてくれて、力がわいてきたわ。」
と言ってくれました。
 私は、今回の体験から、親切は何かを手伝ってあげたりすることだけでなくて、こまっている人や、弱っている人に、やさしい声をかけてあげることも、大きな親切につながることを知りました。
 ありがとうの言葉をたくさん言ってもらえるように、これからも、まわりの人にやさしい人間になりたい、と思います。

親切な二人のお兄さん
長野県 追手町小学校 五年 原 輝登

 三月のことです。夕方、母がドコモショップへ行くとき、弟とぼくも母の車に乗りました。通っているボクシングジムに、送ってもらうことになっていたのです。小雨が降り出し、とても暗く、寒い日でした。
 「もうすぐ七時になる。」
と、母は何度もつぶやきました。お店が七時までということ、ジムに送っていくということで、あせっていただのだと思います。お店が見え、右へ曲がったときです。「ドカーン」というすごい音と共に、車がガタンとゆれて、ぼくたちもガクンとしました。母は、
 「どうしよう。車がうごかなくなっちゃった。」
と言いながら、何度もアクセルをふみました。早くジムに行きたいのに困ったな、と思いました。
 母が外に出てみると、道路の半ばで、ちょうど前輪の後ろに石がはさまり、動けなくなっていました。
 「お母さん、どうするの?ジムは?」「ジムに行けなかったら?」「ここからどうやって帰るの?」「車がこわれたら、どうやって帰るの?」、いろんなことを考えていました。
 「どうしたんですか?」
と、二人のお兄さんが声をかけてくれました。一人は金髪、もう一人は長い髪の毛をしばっていて、ちょっとこわそうに見えました。
 「ぼくたちが後ろを押すんで、アクセルをふんでください。」
 母は、お兄さんたちの言うとおり、アクセルをふみました。おどろいたことに、お兄さんたちは、ものすごい力で車を軽々と持ち上げてくれ、何とか車をお店の駐車場へ入れることができました。
 すると今度は、前のタイヤがパンクしていました。お兄ちゃんたちは、
 「早くしないと閉まっちゃうから、お店へ行ってください。その間に、換えておきますから。」
と言いました。母は、
 「見ず知らずの人に、そこまでしていただいては……。」
と、何度も言っていましたが、お兄さんたちは、
 「道具もあるし、すぐできるので大丈夫。」
と言い、タイヤを換え始めました。
 「ぼくも手伝います。」
と、ぼくが言ったけれど、
 「雨も降っているし、危ないから見てて。」
と言われました。雨の中の二人はぬれながら、知らないぼくたちのためにタイヤを換えてくれました。十分もかからず、タイヤ交換は終わりました。母は、
 「お礼をしたいので、連絡先を教えてほしい。」
と言いましたが、
 「ぼくたちは、車が好きでいつもこういうことをしているので、お礼はいりません。」
と言って、帰って行きました。ぼくは、そんなお兄さんたちがカッコイイな、と思いました。
 大人になったら、あのお兄さんたちのように、困った人を助ける人になりたいです。

電車に乗ったときのこと
静岡県 高洲南小学校 三年 鈴木拓朗

 夏休みに、電車に乗って東しずおかへ行きました。お母さんとぼくは、せきがあいていたので、すわることができました。お母さんと、
 「お年よりがきたら、せきをゆずろうね。」
と話をしました。
 電車の中は少しこんでいて、立っている人もいました。と中のえきで、おばあさんが乗りました。すわっていたわかい男の人が、おばあさんに、
 「どうぞ。」
と言って、せきをゆずりました。だけど、おばあさんは、
 「すぐにおりるから、いいよ。」
と言って、すわりませんでした。次の次のえきで、おばあさんは電車をおりました。
 もしもぼくのすわっている前におばあさんがきたら、ぼくもせきをゆずるけれど、知らない人に声をかけるのは、すごくどきどきしてきんちょうします。わかい男の人は、ゆうきがあってえらい、と思いました。ぼくは、
 「何で、おばあさんはすわらなかったのかな。」
とふしぎに思いました。もしかしたら、おばあさんと思われるのがいやっだのかな、と思いました。
 わかい男の人は、おばあさんがすわってくれなくてどんな気持だったのかな、と思いました。ぼくだったら、すわってほしかったな、と思います。わかい男の人も、
 「ありがとう。」
と言って、すわってほしかったんじゃないかな、と思いました。まわりの人のやさしい気持ちに、やさしい心でこたえるのも大切なことだと思いました。
 ぼくはこれからも、お年よりや体の弱い人にあったら、やさしい気持ちでせきをゆずることをわすれずにいたいと思います。

心を通わせる思いやり
静岡県 双葉小学校 六年 米倉和花奈

 「だいじょうぶ?」
 五年生のサッカーの授業をしていて、友達が転んで痛そうにしていたとき、たくさんの友達がやさしく声をかけに集まりました。けれども、
 「それぐらいだいじょうぶだよ。」
と言っている友達もいました。下校のとき、けがをした友達に、
 「けがの具合は、だいじょうぶ。」
と聞くと、
 「けがは、だいじょうぶだよ。みんなが、心配して声をかけてくれたから、うれしかったよ。だけど、少しひどいことを言われて、いやだったよ。」
と、けがをした友達は言っていました。私は、その話を聞いて、私たちが相手を心配してかけた言葉は、相手には思いやりのある言葉として受け取ってもらえ、逆に、「それぐらいだいじょうぶだよ」という言葉は、意地悪に受け取られていたと思いました。
 今年の五月、私のクラスに、東日本大しん災のえいきょうで、福島からひ難してきた友達がやってきました。福島から来た友達は、静かそうだったので、そっとしておいたほうがいいと思い、あまり声をかけませんでした。
 けれど、何日か経って、先生から、
 「福島から来た友達は、みんなが話してくれなくてさみしがっています。」
と告げられました。意識してそっとしておいたのに、そのことでかえって苦しい思いをしていたと知って、びっくりしました。
 その後、声をかけたけれど、学校に来なくなってしまいました。みんなで話し合って、自分たちの気持ちを手紙で伝えました。そして、福島から来た友達は、学校に来られるようになりました。
 しかし、今度は声をかけすぎて、学校に来ると泣いてばかりいました。結局、あまりなじめずに、福島に帰ることになってしまいました。
 私は、このことがあるまでは、「思いやり」は、やさしく声をかけてあげることだと思っていました。しかし、ただやさしい声をかけても、気持ちは伝わらないこともあると分かりました。
 五年生のサッカーのときのことも、「それぐらいだいじょうぶだよ。」と言ったのは、けがの具合が少なかったので、はげましをしたことが、いやなことを言われたと思われたのではないか、と思います。
 私は、声をかける人が、聞く相手をうれしくさせるような言葉を選べばいいと思います。「思いやり」とは、その人の気持ちを感じながら声をかけることですが、それは一番難しいことで、一番大切なことだと思います。それができれば、相手に「思いやり」を与えることができると思います。
 私はこれから、人とのコミュニケーションを取ることから始め、人にやさしくしたいです。

わたしの友だち
京都府 桂東小学校 二年 原 心美

 中間やすみに外を歩いていたら、友だちが、
 「一しょにあそぼう。」
と、わたしにこえをかけてくれました。それを言われたとき、校ちょう先生がおっしゃられたように、こころがぽわんとあたたかくなりました。
 だから、わたしは、この言ばが大すきです。そして、このお友だちのことが、大すきになりました。わたしにも、一しょにあそぼう、とこえをかけてさそってくれる友だちがいるんだと思って、あとからどんどん、どんどんうれしくなってきました。
 だから、わたしは、がっこうが大すきになりました。だから、しゅうだんとう校も、ちこくせずに行けるようになりました。そうしたら、
 「おはようございます。」
と、大きなこえで言えるようになりました。
 わたしは、これからも学校でもえがおで、たのしくげんきいっぱいなかよしクラスになるといいな、と思いました。だから、わたしも、友だちにしん切にしようと思いました。
 そして、ほかの友だちにも、「一しょにあそぼう」や「おはようございます」、「ありがとう」などたくさん言ってほしいな、と思いました。ほかの友だちにも言ってほしいから、わたしが先に言ったら、言ってくれると思うので、わたしからどんどん言おうと思います。
 だから、がんばろうと思います。また、こころが、あったかくなりたいです。

声かけで元気になれる
京都府 藤城小学校 五年 犬飼瑞帆

 七月三十一日、私とお母さんとお母さんの妹と、愛宕山の千日まいりに行きました。 
 愛宕山には、私たちの他にも、小さい子どもをせ中におんぶしながらの家族づれや、犬といっしょに来ている人や、年老いたおじさん、おばさんたちや大勢の人たちが来ていました。
 登る前に祖母が持たせてくれた、私のお気に入りのツナマヨを食べたら塩がよくきいていて、お水をたくさん飲んでしまいました。お母さんが、
 「そんなに飲むと、おなかがいたくなるよ。」
と心配してくれました。おにぎりも食べて、いざ出発すると、
 「おのぼりやす。」
と、おりる人が言ってくれておどろいていると、近くのおじさんが、
 「『おくだりやす』と言うのやで。」
と教えてくださいました。
この声かけのおかげで、がんばれました。だんだんしんどくなってきたときには、さすがにその声かけも返すことができなくなっていましたが、しんどそうにしていると、お母さんの妹が休けいをとってくれたり、お母さんが、
「瑞帆がいるから、いくらしんどくてもここでやめられへんなあ。いっしょにがんばろうな。」
と言ってくれて、お母さんもしんどいのにいっしょにがんばってくれているのだと思って、私もあきらめませんでした。
 また、他の人が、
 「よくがんばってるね。」
 「あと少しやで。もうちょっとがんばれ。」
と声をかけてくださって、元気がでたり、私よりも小さい子がしんどいと泣きながらも登っているすがたに、「がんばれー」と声をかけることで、小さい子が元気になるすがたを見て、私もまだまだがんばろーと思いました。
 念願の頂上に着いて、祖母のおにぎりを食べたら、登る前に食べた塩からさがなくて、とてもつかれがふっとびました。祖母は、きっと頂上で食べるのにちょうどいい味にしてくれたんだなあ、とつくづく思いました。
 ほかにも、しんどくなった人を下までおろしてくれる消防団の方や、夜おそくまでバスや電車の運転をしてくださる人がいることで、千日まいりを終え無事に帰ることができました。
 「おのぼりやす」や「おくだりやす」の声かけは、おたがいが元気になるので、私もそんな元気をあたえられる声かけをしたいです。

千羽鶴をむねに……
奈良県 生駒小学校 五年 髙木花保

 私の母のおじさんは、中学校の校長先生をしていました。外国の日本人学校の校長先生もしていたことがあります。
 そんなおじさんは、会ったらいつも私におもしろいことを言って笑わせてくれたり、色々なことを教えてくれました。その中でも、私が一番心に残ったおじさんのお話は、「人間には、バカとか、かしこいとかないんだよ。みんなそれぞれ得意なこととか個性があって、みんな素晴らしい人間なんだよ。」と言っていたことです。
 ところが、あんなに元気だったおじさんが、ガンになってしまいました。
 そこで私は、おじさんに少しでも元気になってもらえるように千羽鶴を折ろうと決めました。母と姉と毎日一羽一羽、心をこめて折りました。私は、おじさんの病気が治りますように、と祈りました。
 そして、病院でおじさんに千羽鶴をわたすと、とても喜んでくれました。おじさんは、
「若い人たちの折った千羽鶴だから、若い元気パワーをもらえそう。言葉では、ありがとうしか言えないけれど、それよりも、もっともっとうれしい感謝の気持ち。」
と言ってくれました。
 おもしろいおじさんは、最後までじょうだんを言っていました。
「焼きかげんは、ミディアムはだめだよ。ウェルダンにしてよ。」
と言ったので、みんなはおじさんがステーキを食べる夢でも見ていたのかと思ったら、
 「ちがうよ。ぼくの体だよ。生焼けじゃ困るでしょ。しっかり焼いてよ。」
とじょうだんを言って、みんなを笑わせてくれました。
 そして、その次の日に、おじさんは亡くなりました。おそう式のとき、おばさんが、
 「毎日毎日、病院のベッドで、ずっと千羽鶴をながめてたから。」
と言って、ひつぎの中のおじさんのむねの上に、そっと千羽鶴をのせました。おじさんは亡くなってしまったけれど、私は千羽鶴を折って、本当に良かったな、と思いました。それは、おじさんが千羽鶴を見ながら、色々なことを考えて、少しは幸せな気持ちになってくれたからです。
 私は、病気をいやすのはお薬だけではないと思います。人にやさしくしてもらうことは、病気の人の心を治りょうするのだなあ、と思いました。