入賞【中学生の部】
私がした小さな親切
福岡県 福岡教育大学附属久留米中学校 三年 國武真唯
これは、塾に行く途中で、私がした小さな親切の話です。
去年の夏休み、私が通っている塾では夏期講習中でした。塾に行く際、私は塾までの約三十分間の道のりを、毎日徒歩で通っていました。もちろん、塾に着くころには汗だくなので、ハンカチとタオルは必須で、常にバッグの中に入れていました。
夏期講習も中盤に差しかかろうとする中、夏の暑さはピークを迎えていました。ある日、私が信号待ちをしていたとき、隣にいたおばあさんが、バッグの中に手を入れて何かを探していました。信号が青になっても、おばあさんは歩こうとせず、必死に何かを探していたので、私は気になって、
「どうしたのですか?」
と声をかけて事情を聞くと、今日はいつも以上に汗をかいたのにも関わらず、あいにくハンカチを忘れたそうで、すごく困っていました。私は、急いでバッグからハンカチを引っ張り出して、
「よかったら、このハンカチを使って下さい。私にはタオルがありますので。」
と言って、ハンカチを渡しました。おばあさんは驚いた表情で、
「いいんですか?有難うございます。ですが、次いつあなたに会って、このハンカチを返せるのか分かりません。」
「私なら、この時間に毎日この道を歩いていますよ。それに、そのハンカチは返して下さらなくても構いませんし……。」
と、私が言うと、
「いいえ、絶対に返します。それでは、明日のこの時間に、この場所で待っていても大丈夫ですか?」
「はい。」
私たちはこのような約束を交わして、私はおばあさんと別れました。
翌日、私は約束した時間に間に合うように行くと、既におばあさんは、その場所に来ていました。おばあさんは私に、
「昨日は、本当に有難うございました。もしよかったら、袋の中に入れているお菓子、食べて下さい。それでは、またいつか……。」
と優しい笑顔で言うと、小さな紙袋を私に渡して、一分もたたないうちに別れました。
塾に着いて紙袋の中身を見ると、昨日貸したハンカチと和菓子が二つ、そして小さな手紙が入っていました。手紙の一部には、こんなことが書かれていました。
“私もあなたを見習って、出かける際は、ハンカチを二枚持ち歩くようにしています。あなたの恩を、一人でも多くの人に伝えたいからです。この度は、本当に感謝しています。ありがとう。”
私はこの手紙を読んで、感動しました。私がした親切がこのような形で、また違う誰かへと広がろうとしていると思うと、嬉しくてたまりませんでした。そして、人にした親切は倍になって、自分に返ってくることを改めて実感しました。おばあさんからもらった和菓子の味は、今でも覚えています。
このことは、一年経っても忘れることのできない、心温まった私のした小さな親切から生まれた、大切な出来事の一つです。
ラストゲームで気づいた親切
熊本県 京陵中学校 一年 野村拓生
ぼくは、「小さな親切」と聞くと、小学校のとき所属していたサッカー部の最後の大会を思い出す。その大会に、ぼくはけがで出場することが出来なかったが、サッカー部の仲間からたくさんの親切を受け取り、忘れられない思い出になった。
大会の二日前、ぼくは練習中にヘディングシュートをした。そのとき、頭から首にかけて「ギィーンッ」と痛くなり、クラクラし始めた。その日の練習は休み、念のため病院に行った。すると、病院の先生から、次の試合は出場しないようにと指示された。ぼくは、今までにないほど落ちこんだ。
病院に行った後、サッカー部のみんなに大会に出られないことを知らせた。すると、まず試合の心配ではなく、みんなはぼくの体を心配してくれた。そのことが、すごくうれしかった。
それまでは、「三年間頑張ってきたのに」と思って、落ちこんでいたが、みんなのこのような親切に気づき、「自分の出来ることをやりとげよう」と思った。
そして、ついに大会当日になった。それまでに落ち着いた気持ちも、みんながウォーミングアップする姿を見ていると、やっぱり悔しい気持ちになった。でも、前日のみんなの親切を思い出し、気持ちを入れ替えた。
そんなことを考えていたら、あっという間に試合が始まった。一試合目、二試合目は順調に勝ち進んだ。そして、見事決勝戦に進んだ。決勝戦の前半は、相手チームに一点リードされた。ぼくは、ハーフタイムにみんなに水を配ったり、声をかけてチームを盛り上げたりした。
決勝戦の後半が始まり、ぼくはベンチの中で、自分の出来ることの全てをやった。のどがガラガラになるほど、応えんした。すると、まさかの逆転勝利を仲間がなしとげた。
試合終了のホイッスルがなったとき、自分は試合に出ていないにも関わらず、今までに無いほど幸せな気持ちになった。その後、写真撮影があった。そこで、みんなから、
「野村にトロフィー持たせろよ。」
と言う声が上がり、ぼくに優勝トロフィーを持たせてくれた。ぼくは、自然に涙が出た。「こんなやさしい親切な心を持つ仲間と、サッカーをやってきて良かった」という気持ちでいっぱいになった。
ぼくはこのとき、人に親切にしたり、人をサポートしたりすると、後から自分が幸せになれるのだと学んだ。そして、親切な言葉をかけると、相手の気持ちがほっとすることを知った。
ぼくは、今も中学校でサッカーをしている。ぼくが今一番心がけているのは、ピッチの上で、「ナイス」や「ドンマイ」という言葉をみんなにかけることだ。
このように、これからは自分や他人が幸せになれるよう、「小さな親切」と言うものを大切にし、実行していきたい。
伝染していく幸せ
熊本県 白川中学校 二年 富永慶吾
「昨日、うちの娘が、君のお姉さんにお世話になったようで、どうも有難う。」
僕が小学校五年のとき、前の担任の先生に、廊下で突然お礼を言われてとても驚いた。訳がわからない顔をしていると、先生は、
「えっ、聞いてないの?実はね……。」
と事情を説明してくれた。先生には、幼稚園に通うお子さんがいるが、仕事で幼稚園バスのお迎えに行けない。そこで、ボランティアのおばあさんに、毎日お迎えを頼んでいるそうだ。
昨日もいつも通りにお迎えに行くと、急に大雨が降りだした。軒下で雨宿りをしていたが、なかなか止みそうもない。幼稚園のお子さんをずぶ濡れで歩かせる訳にもいかなくて、おばあさんが困っていると、向うから学校帰りの中学生の女の子がやってきた。
その子は二人の様子を見ると、スッと傘をさし出して、
「これ、使って下さい。私の家、あそこなので。」
と前方の建物を指差し、
「ついでのときに、返してもらえればいいので……。」
と言うと、雨の中に走り出して行ったそうだ。その子のお陰で、二人はとても助かったそうだ。
先生は、おばあさんから話を聞いて、建物の場所から僕の姉だと分かったらしい。
「有難う。優しいお姉さんね。見ず知らずの人に声をかけて傘を貸すのって、勇気がいるよね。娘にも良いお手本になったわ。」
姉のことをほめられて、僕はうれしくて誇らしい気持ちになった。
家に帰って、母に話すと、そのおばあさんが傘とお礼の手紙を持って訪ねてきたそうだ。何度も、「有難うございます。」と言って、今どきこんなに親切な学生はいない。温かい気持ちになりました、と頭を下げて、帰られたという。母も、娘が人を思いやれる子に育っていることを、うれしく思っているようだった。
学校から帰ってきた姉に話を聞くと、
「そう、傘を貸したんだよね。」
とあっさり答えた。姉にとっては、当たり前の行動だったらしい。特別なことではないので、僕たちに話さなかったのだ。
僕は正直、姉をすごいな、と思った。僕だったら、いいことをしたと自慢するかもしれない。それよりも前に、困っているなと思っても、はずかしいとか色々あって行動にうつせない。
おばあさんからの手紙を読んで、姉もうれしそうだった。『お迎えの途中で、また会えますように。毎日の楽しみが、一つ増えました。』と書かれていた。
姉の小さな親切で、おばあさんとお子さんと先生が、うれしくなった。その話を聞いて、僕や母や父もうれしくなった。祖父母も、孫の成長をうれしく思った。みんながうれしくなって、姉自身もうれしくなった。幸せが伝染した。
人に親切にすること。そして、親切にされたら、お礼の気持ちを伝えること。それを続けていけば、幸せの輪がつながっていくと思う。
親切から生まれるもの
大分県 山香中学校 一年 坂本沙也香
私のとなりの家に、親せきのおばあちゃんが住んでいます。小さいころから、いつもかわいがってくれていて、本当のおばあちゃんの様な存在です。そんなおばあちゃんは九十才近くて、一度体をこわしたこともあります。今は元気なのですが、やはり一人暮らしをしているので気になります。
私は、おばあちゃんが退院したときに私にできること、おばあちゃんを助けてあげられることは何だろう、と考えました。私は今、おばあちゃんの家に毎朝、仏だんのおごくを持って行っています。おばあちゃんが炊いたご飯を仏だんのおごくに使ったら、おばあちゃんの分のご飯が少なくなってしまう、と思ったからです。
本当は、洗たくやご飯を作ったり、そうじなどしてあげたいのですが、なかなか学校がありできません。おごくですら、時間がなくて行けなかったりしてしまう日も増えてきています。でも、行ったときはいつも、
「早いねー。学校間に合うかえ?」
と、決まって言ってくれます。そして、
「じいちゃんも喜んでるわ。」
と、うれしそうに笑ってくれます。私はこんな小さなことしかできませんが、おばあちゃんはとても喜んでくれて、私もうれしくなります。
また、まだ誰にも言っていませんが、私はいつも仏様、そしておばあちゃんのだんなさん、つまり親せきの亡くなったおじいちゃんに、「ばあちゃんに幸せをあげて下さい」とお願しています。おばあちゃんはいつも帰るときには、私に、
「ありがとう。」
と言ってくれます。
私は、おばあちゃんの家に行く度に、おばあちゃんから温かい優しさをもらっているのを感じます。おかしをくれたり、朝見送ってくれたり、そして、何より私を心配してくれます。
私が病気になって病院に行ったときは、仏様とおじいちゃんに、「沙也ちゃんが早く良くなりますように」とお願してくれたこともありました。私は、そんな小さな優しさがとてもうれしいです。いつも「おばあちゃん、ありがとう」と思っています。
私は、親切をした分、親切は返ってくると思います。でも、親切は返してもらうためにするのではなくて、相手の気持ちを考えると自然に親切をしようと思う気持ちから生まれるものだと思います。
相手の喜ぶ顔が一番、私はうれしいです。だから、私はずっとおばあちゃんに親切をしようって思います。親切をしたら、そこからたくさんの笑顔が生まれます。相手の笑顔、そして自分の笑顔。だから、世界の人たちみんなが相手の笑顔を大事にすると、世の中が明るくなって、みんなみんな親切をし合うと思います。
親切から生まれるのは悲しいことではなくて、幸せな楽しい未来だと私は思います。
私は、小さな親切をこれからもしていきたいです。なかなか席をゆずるとか、重い荷物を持ってあげるなど、出会う場面は少ないかもしれませんが、そのときは心と心がつながるときだと思うので、相手のためにこの手を差しのべたいです。
私はまだ、あいさつ練習中
大分県 国見中学校 三年 山下穂乃香
私たちの学校には、「あいさつと校歌の声は日本一」という伝統があります。学校内だけでなく、町内で出会った方々にあいさつをするのが習慣となっています。「こんばんは。」と言うと、かならず、「こんばんは。おかえり。」とか「遅くまで大変やね。」と言葉が返ってきます。
その一言ですごく元気をもらえるし、血はつながっていないけれど、町内全体が家族のような存在であってくれます。見渡す限り、山と田に囲まれた田舎ではありますが、町内の方々の小さな親切の気持ちが、私は大好きです。
私がどうしてあいさつを題材にしたかというと、ちょっとした発見があったからです。久しぶりに休みがとれて帰ってきたお姉ちゃんを送るため、家族で福岡に行ったときのことです。
何気なく福岡市内で買い物をしていて、あることにふと気づきました。それは、誰もすれ違う人々にあいさつをしないこと。心の通い合いもなく、言葉のキャッチボールもないまま、ただただ人と人とがすれ違って行くのです。
その光景を見て、私は寂しい気持ちと悲しい気持ちになりました。同じ日本人なのに、血がつながっていないだけで、こんなにも人は冷たいものなのか、と思ってしまったからです。
確かに、私の地域は田舎で、福岡市と比べて大きな建物もないし、人も多くはいません。けれど、心のぬくもりがあります。小さな親切の気持ちが、常にそこにはあるのです。
そこで、今度は自分があいさつをしてみようと思いました。もちろん、一つの路地に入った人気の少ない場所ではありますが、それなら私の地域と条件はかわりません。しかし、どんなに勇気を出しても、自分の口から「こんにちは」という言葉が出てきませんでした。
無情にも、人だけが私の横を通りすぎて行くだけでした。私は、その場の雰囲気と環境に、すっかり飲みこまれていました。それと、「もし自分があいさつをしたら、どういう目で見られるのだろう。あいさつを返してくれるのだろうか」という不安と恐怖が自分の心の中にあったのだと思います。
何度も何度も自分の心の中で、かっとうを繰り返してみたものの、やっぱり自分の口からあいさつの言葉が出てくることはありませんでした。
私はこの体験を通して、小さな親切をする難しさを初めて知った気がします。小さな親切をするには、それなりの環境(雰囲気)と、とてつもなく大きな勇気が必要なのだと思いました。
そう思うと、まだまだ自分にはそれほどの力は無いなあ、と反省しました。いつか自分が都会に出て、道行く人に出会ったとき、大きな声であいさつができるように、今はまだまだ練習中です。
だから今は、自分の地域の環境(雰囲気)と人々に感謝して、「こんにちは!」とあいさつをします。
つながりのある親切
宮崎県 東大宮中学校 一年 増田有輝
ぼくがした小さな親切は、祭の準備をしていたおじちゃんに差し入れをしたことです。
朝、買い物をして帰ってくるときに、おじちゃんが一人で祭の準備をしていました。ぼくは、
「こんな暑い中、大変だなあ。」
と言いました。それを聞いていた母が、
「私が仕事にいくときも、一人でがんばっていらしゃるよ。」
と言っていました。ぼくは、みんなのためになぜここまでしてくれるのだろう、と思いました。
ぼくは、家に帰ってからもおじちゃんのことで頭がいっぱいでした。ぼくは頭の中で、ポッと考えが浮かびました。「そうだ、差し入れでも持って行ってあげよう!!」。家にあったアメヤおかしや、自動販売機でお茶を買って、おじちゃんのいたところに自転車に乗って行きました。
おじちゃんは、まだ準備をしていました。ぼくは、おじいちゃんに、
「おじちゃん、ハイこれ差し入れ。いつもみんなのためにありがとう。」
と言って、差し入れをわたしました。おじちゃんは、
「え、もらっていいの。ありがとうね。」
と言っていました。おじちゃんとぼくは、ベンチで座って話をしました。
「なぜ、そこまでみんなのためにがんばっているの。」
と聞きました。おじちゃんは、
「それは、みんなの笑い顔が見たいからだよ。」
と言っていました。ぼくは、そのとき分かりました。おじちゃんは、みんなの笑い顔が力の源なんだなあ、と思いました。
そういえば、小学生のときに、おじちゃんは毎朝みんなの安全を守るために立っていてくれて、みんなのためになぞなぞを出してくれたり、早口言葉を教えてくれました。ぼくは、おじちゃんにいつも親切にされていたのだと気付きました。
そういえば、ぼくはみんなのためにがんばったことはあるか、と心に思いました。ぼくは、みんなのためにがんばれるおじちゃんが素晴らしいと思いました。だから、おじちゃんは子どもやいろいろな人に声をかけられたり、人気者なんだなあ、と思いました。ぼくは、おじちゃんに、
「そろそろ帰ります。」
と言いました。おじちゃんは、
「あら、そう。今日はありがとうね。なみだが出そうだったよ。」
と言いました。ぼくは、
「いえいえ、おじちゃんもがんばって下さいね。」
と言いました。
人に親切にすると、気分が良かったです。親切と親切は、つながっています。
小さな親切ポスト
鹿児島県 伊敷中学校 三年 日髙環奈
「よし。」
私が、いつもの通りに整然と並べたトイレのスリッパ。小学校五年生のあの瞬間が、今も心から離れない。私は、毎回トイレから出るとスリッパを並べる習慣があった。それが、普通だと思っていた。しかし、それは一瞬にして覆された。
ある休み時間、仲良しグループでトイレに行った。どこの学校でも見られる光景だろう。そして、ぞろぞろと中へ入って、みながみな個人の用をすませた。それまではよかった。
しかし、次の瞬間、私は自分の目を疑った。そのくらい驚いた。なぜなら、みんながスリッパをけっとばして遊び、そのまま教室に戻って行こうとしたからだ。ブランコをしながら、靴を飛ばす遊びは見たことがあったし、自分もそれで遊んだ思い出もあった。だけど、トイレのスリッパをけっ飛ばすなんてあんまりだろう、と思った。
私は驚いたのと同時に、いろいろなことが頭をよぎった。ここは注意しないと。そう思ったけれど、友達にまじめって思われるのは嫌だった。しかし、注意しないといけないのは当たり前、ということぐらいは分かっていた。それに、私は保険委員会の副委員長だった。
しかし、結局言えずに、心のもやもやをもって教室へ戻った。授業中もずっとトイレのスリッパのことが気になった。私は次の休み時間、一人でトイレに行って、急いでスリッパを並べて、急いで教室に戻った。私は心がすっきりした。
だが、それと同時に自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。保健副委員だからといって、無理やりしているのではなかった。しかし、それが良いことなのか分からなくなってきた。でも、私のスリッパを並べる習慣については、幼いころから継続してきたことだったから、おかしいことだとは思わなかった。それに、その習慣を馬鹿にされたことは無かった。しかし、ほめられたことも無かった。
そんなある日、私の心の中が一瞬にして変わることがおきた。それは、「小さな親切ポスト」という箱だ。その箱は、小さな親切をしている人を見かけたり、自分が親切にしてもらったときに、紙に書いてその箱に入れる。そうすると担任の先生が、親切をした人に、そのことをそっと教えてくれるのだ。
なぜ、そっと教えてくれるのかは分からないが、たぶん親切にしてもらった人は、親切にしてくれた人に直接、感謝の気持ちを伝えるのは恥ずかしいからかもしれない。そして、私はある先生に呼ばれた。その先生は、満面の笑顔を浮かべていた。そして、何かの紙を見て一言。
「環奈が、トイレのスリッパを並べているのを何回も見かけています。ありがとう。」
と言って、先生は小さな親切ポストを指さした。私は初めて、自分の習慣が良いことなのだ、と気付いた。
小さな親切ポスト、ありがとう。
私がしてもらった親切
鹿児島県 阿久根中学校 三年 牧内美樹
私は、東北地方太平洋沖地震で被災しました。そのとき、多くの優しさを受け、感じたことがあります。
地震のときは、家で一人、テレビを見ていました。両親は仕事中で電話も繋がらず、私はパニック状態でした。そんなとき、近所の人が冷静に対応して下さり、落ちつくことができました。また、親とも無事会うことができました。
次の日、原発の影響により、家族で三春町の体育館に避難しました。当時は、すぐ戻れるだろうと思っていたので、必要最低限の荷物しか持って行きませんでした。でも、避難所の「親切」により、不自由なく生活することができました。
食事面では、町民の方々が作って下さったおにぎりや、送られてきた物を調理したサラダやみそ汁、カップラーメン等もあり、一日三食、食べていました。生活面では、毛布やタオル、衣類等の物を頂いたり、お風呂も三日に一回くらいのペースで無料で入らせてもらったりしました。
避難所では、友達とメールをして過ごしていました。そこの避難所には、同じ学校の人がいなくてとても寂しい思いでしたが、「大丈夫?」と心配してくれたり、「頑張れ」と応援してくれたりして、勇気をもらいました。そして、友達の大切さとありがたさを改めて感じました。
一週間くらいして、二十三日に母と二人で、鹿児島県の祖母の家に避難することが決まりました。でも、私は嫌でした。なぜなら、ずっと一緒にいた友達と離れてしまうし、文化や言葉も違う所で新しい友達ができるのか、いじめられないか不安でいっぱいだったからです。
でも、実際学校に行ってみると、近くの席の人が優しく話しかけてくれました。それからも友達が沢山でき、鹿児島について教えてもらったり、逆に福島でのことを教えたりなど、色々な話をするようになりました。
また、周りが明るい人たちばかりなので、前よりも笑顔でいるときが増え、楽しい学校生活を送っています。
今回、私は多くの方々に親切にして頂きました。この感謝の気持ちを忘れず過ごしていきます。まだ物資がなく、大変なときを過ごしている人も大勢います。福島の友達の中には、生活に慣れることができない人もいます。父は仕事の関係上、福島に今も居て、本当に大変そうです。
私にできる親切も沢山あるので、今度は恩返しの意味も込めて困っている人に声をかけたり、福島の友達に励ましのメールを送ったりするなど、自分から進んで良いことをしていきたいです。
