佐賀県内の「小さな親切」運動~佐賀県本部~
【寄稿】地元を知ろう!!

 

佐賀市の「赤松まちづくり協議会 まなび部会」の部会長、佐賀城公園の堀の「ハス再生実行委員会」事務局長など様々な顔を持つ、「小さな親切」運動佐賀県本部・永原光彦代表。それぞれの活動の原動力となっているのは、地域を心から愛する気持ちです。
今回永原代表が、地元である佐賀市鬼丸町の歴史について、地域の皆さんに知ってもらい、さらには全国の方々にも佐賀の魅力を発信したいと、文章を寄せてくださいました。


 

地元を知ろう!
「小さな親切」運動佐賀県本部 代表 永原光彦

 

【佐賀市鬼丸町とは?】
鬼丸町は佐賀城南西部の鬼門にあたるため、城内に準じた重要な地区として“鬼丸“という強い名称になったようです。鬼丸堅小路、鬼丸横小路など古文書で確認されていますが、それよりもっと古くからも呼ばれていたようです。そこに住んでいたのは大半が佐賀藩支藩小城藩士でした。

 

【幻の巨大庭園~観頣荘~】
元禄11年(1698年)に佐賀藩三代藩主「鍋島綱茂」が、現在の鬼丸町及び赤松町一帯に築造した「観頤荘(かんいそう)」は、11万6,000平方メートル弱と、現存していれば、岡山後楽園に次ぐ広さの巨大庭園でした。
そこには大きな池を始め築山、展望台、茶屋、馬場などがあり、日本三名園に遜色ない池泉回遊(ちせんかいゆう)式の大名庭園です。
しかし築造からわずか9年後の宝永4年(1707年)には解体され、今見られるのは茶屋だったらしい建物や石垣のみ。ただ、佐賀藩の学問の中心であった鬼丸聖堂(おにまるせいどう)は幕末まで残っていました。

佐賀にいらした際は、往時に思いをはせながら、鬼丸聖堂跡などを探されてはいかがでしょうか。

幻の巨大庭園「観頣荘」

 

【佐賀の七賢人・副島種臣生誕の地】
歴史の街、鬼丸町を歩くと、まずお堀からすぐ南、佐賀県の社会福祉会館の前に国学者「枝吉南郷」の屋敷があって、長男・枝吉神陽、次男・二郎(副島種臣)の“生誕地碑“があります。副島種臣は兄の「義祭同盟」に参加して、長崎で英学を学び、明治政府では要職についていました。書家としても有名でした。この社会福祉会館は移転に決まり、跡地利用については枝吉神陽・副島種臣記念館(仮称)として検討していただくよう話し合いが今後行われます。

 

社会福祉会館前には、「蒼海伯副島種臣誕生地」の碑が

 

 

【戦国大名ゆかりの寶琳院(と3匹の山羊)】
「寶琳院(ほうりんいん)」は天台宗で恵日山と号します。711年に行基が建立した寶琳院は、戦国大名・竜造寺隆信が、7歳で出家し「圓月」と称して過ごしたお寺です。
ここには歴代住職の墓があり、その墓は今でも完全に守られていますが、これも珍しいことです。そして、ここには忠霊塔(侍従長海軍大将・百武三郎の碑文)もあります。

寶琳院歴代住職の墓所

さらに鬼丸町には珍しい風景も。この寶琳院を出てすぐそこには山羊小屋があり、人懐っこい3匹の山羊がいます。かわいいですよ。

 

鬼丸町で寂しいのは、飲食店もなく空き家が多く、高齢者の方が多くいらっしゃること。このような生活環境をもっと地域の方々が知っていただき、改善していくことが必要だと思います。
私はお堀のハスを観察して見守ること、そして自然が大好きです。ちなみに我が家には五メートルほどの槙の木があります。自然の街がまだまだ残っている街、鬼丸町が大好きです。
何気なく歩いているところにも何かがある。歴史の深いところをぜひ歩いてみていただければと思います。

佐賀城公園に建つ、北海道開拓の父と呼ばれた佐賀藩士「島義勇」の銅像。地域の歴史・文化に関心を持つ方々に、永原代表が解説しながら街巡り。

 

 


身のまわりの物や人を知ることで、益々地域を愛する気持ちになれたら素敵ですね。皆さんも、ぜひ改めて今お住まいの地域の歴史や文化や環境を調べてみませんか?

 

 


<この取り組みを通じて、以下の目標達成に貢献しています>

 

 

 

 

 

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