近所づきあいが避難(ひなん)生活をささえてくれました(その4)

宮城県(みやぎけん)看護師(かんごし)さんの話(その4)

避難所(ひなんじょ)はどのように運営されていたか】

学校の先生方・PTA・地域(ちいき)の人で構成された避難所本部は、各教室と体育館のエリアごとに(はん)(数十名)に分け、班長を決めました。

すべての物資は班長と4~5名のサポーターが配布を行います。班の中には歩けないお年寄りもいましたが、そうした人たちにも物資が行きわたるように、班長が手配をしていました。

班制度ができたおかげで、支援(しえん)食料のかしパン(1班40人あたり80~90個)もうまく分けられました。

また、自分から避難所本部の仕事を手伝う人も出てきました。例えばガス屋さんは、被害(ひがい)を受けなかったガスボンベとガスコンロを避難所に運んできてくれ、そのガスコンロのおかげであたたかいものが食べられるようになりました。

燃料となるがれきを集める人も出てきました。おかげでおふろというわけにはいきませんでしたが、お湯をわかすことができました。

体力のある人は避難所の周囲のがれきをかたづけ始め、少しずつ道も作られていきました。そのおかげで物資をつんだ車がきやすくなりました。

トイレそうじは大変ですが、最も大切な仕事の一つです。それをそっせんしてやってくれた人もいました。

PTAの会長は、昔は“ガキ大将(たいしょう)”だった人です。そのリーダーシップが避難所のとりまとめに生かされたと感じます。でもみんなの避難所生活をうまく進めていくために一番大切なのは、「命令」ではなく「自発的な行動」です。

落ちこんで、不安がいっぱいの避難所では、そこにいる人は命令では動きません。だれかが何かを始めると、それを見ていた人がまた何かを始める。よく「あの人は何もしない」と文句を言いがちですが、人に何を求めるかではなく、まず自分が何かを始めることが重要だということがよく分かりました。

7日目に大きな余震が来てパニック状態になりかけましたが、支援ボランティアといっしょに、みんなで在宅避難者に声をかけ、30分で避難を終えることができました。