被災地への訪問① ずっと残り続ける被災の記憶

岩手県宮古市には「田老(たろう)」という地区があります。以前は田老町でしたが、『津波太郎』といわれるほど、津波の多い土地柄で、江戸時代初期の1611年委は慶長三陸沖津波で全滅し、1933年(昭和8年)の昭和三陸津波でも大きな被害を受けました。
このとき、高台移転案が出されましたが、日中戦争の影響もあって工事は頓挫します。ようやく1958年(昭和33年)になって、海面からの高さが10mという当時としては破格の規模の防潮堤が築かれたのです。防潮堤よりも海よりの地域は、家を建ててはならないという法律もできましたが、いつの間にか家が並ぶようになっていきました。
そして2011年の3月11日、午後3時25分。東日本大震災による津波が田老地区を襲いました。津波は防潮堤をはるかに超え、市街は全滅状態になります。200人近い死者、行方不明者を出しました。

津波が届いた木:右端
津波が届いた木:右端

現在の堤防から見た景色
現在の堤防から見た景色

この地区で、昭和33年の津波を経験されている荒谷アイさんに話を聞く機会がありました。この津波でアイさんは本人を除く家族7人(祖父母、両親、叔母、妹2人、弟1人)を失い12歳で孤児になりました。
「津波のこと覚えていますか」
「覚えてる、忘れられない。なんにもなかった。残材だけ」
「今でも海は怖いですか?」
「怖い。海には行きたくない」
不思議な話で、別のタイミングで話を聞くと、現在は高台に住んでいるアイさんですが、海のそばで暮らしたいというような発言もありました。それだけ田老町の人々にとっては海が恵みの象徴でもあったのだと思います。
一方で言えることは、大きな被災の記憶は90歳になっても消えることはない、ということです。

「いきる かかわる そなえる」岩手県教育委員会発行
「いきる かかわる そなえる」岩手県教育委員会発行

宮城県の石巻市では石巻小学校、向陽小学校、蛇田中学校にも訪問し、子どもたちの様子を聞いてきました。
子どもたちは一見すると、何事もなかったように遊んでいました。でも、中には夜中に大声をあげたり、極端に遅刻を繰り返したりするようになった子もいるそうです。
紙芝居「まつりの日」には、そんな様子を描いた描写を当初の原稿にはありました。でも、小学生には生生しすぎるという判断もありカットしました。
それはともかく、心の問題は表面には出てこないこともあるのです。
自分が体験したことを、まだ整理できていない子もいます。言葉にしていいのかがわからないのです。本当はすべて吐き出してしまった方がよいのでしょうが、さまざまな思いがそれを押しとどめています。
例えば、両親を亡くした友達への遠慮などもあります。それに比べれば自分の体験は大したことではないと思いこんで言えなくなるのです。周りの大人に遠慮してしまうこともあります。子どもは想像以上に回りを気にして生きているのだと感じました。
子どもたちの中に溜まってしまった記憶と気持ちが、どういう形で今後表面化していくかがとても気がかりです。
心のケアは行われているでしょうが、子どもたちに「何を言ってもいいんだ」と思ってもらえるような関係性を築いてほしいと思います。

取材:にいのゆうひこ