60周年特別インタビュー第4回:「小さな親切」をより大きく① 鈴木恒夫(公益社団法人「小さな親切」運動本部代表)

「小さな親切」運動は今年6月、発足より60周年を迎えます。そこで、新春のご挨拶も兼ねて、運動本部・鈴木恒夫代表のインタビューを2回にわたってお届けします。第一回目は、幼いころから新聞記者を志したきっかけ、その後政治家となった経緯などを語ってもらいました。

 

 

新聞記者になる決意

 

私は、太平洋戦争が始まった年、昭和16(1941)年の2月、横浜市の北部・師岡(もろおか)町で400年続く農家の3男坊として生まれました。終戦の時は4歳。当時の日本は惨憺たる状態で、放火をして家人が逃げている間に、金目になりそうな物を盗む「放火泥棒」があちこちで起こっていました。6歳の時、私の家も「放火泥棒」にあい、蔵を残して全焼。しばらくは蔵のわきに屋根を張って、家族全員そこで雨風をしのいでいました。

そんなある日、家族で昼ご飯を食べていると、郵便配達員がやってきて、黙って父に封筒を渡しました。父は、封筒を開くなり「賢司、ダメだったか……」と言って、いきなり食卓に突っ伏し号泣。それは、戦争に召集されてから音信不通だった弟・賢司の戦死を知らせる手紙でした。父はそれから、小さいころ兄弟でよく遊んだ裏山から、「※注1 泰山木(たいさんぼく)」の幼木を抜いて、一人リヤカーで九段まで運び、靖国神社に植えました。

ふだんは寡黙な父が号泣した光景は、今も私の目に鮮明に焼き付いていて、幼心に「戦争は絶対にあってはならない」と強く思ったことをおぼえています。もともと私は本を読んだり、作文を書くのが好きだったこともあり、いつしか将来は「ペンの力で戦争を防ごう」と、新聞記者を志すようになりました。

中学では、担任が監督をしていたサッカー部に入りました。自分でいうのもなんですが、体は小さいけれど勘の鋭い良い選手でした(笑)。高校進学のとき、担任は「お前なら、オリンピック選手になれる」と、サッカーの強い高校への進学を進めてくれたほどでしたが、私はすでに新聞記者になると心に決めていたので、それを断り、横浜翠嵐高校から早稲田大学の新聞学科に進学。昭和38(1963)年、毎日新聞社に入社し、念願の新聞記者になりました。

新入社員は、研修としてまずは地方支局で仕事を覚えます。私の最初の配属は新潟支局。赴任した翌年、「※注2 新潟地震」が発生し、1週間ほどろくに寝ないで取材に奔走しました。その後も、「※注3 20万円中元事件」など、県政の「政治とカネ」の問題を徹底的に追求。こうした取材が認められ、3年半ほどで東京本社の政治部へ異動になりました。

政治記者は「※注4 夜討ち朝駆け」が基本ですから、家庭生活などないめちゃくちゃな日々を送っていました。自分の結婚式の翌日に、新婚旅行を切り上げて取材に行ったことも。妻は「新聞記者なんかと結婚するんじゃなかった」とあきれたのではないでしょうか(笑)。

昭和40年初めには那覇特派員として、本土復帰前の沖縄を取材しました。このとき、朝日新聞から送り込まれていたのは筑紫哲也氏。私は「筑紫ちゃん」と呼んで、毎晩のように、記者仲間とお酒をあおりながら麻雀卓を囲み、その後も親しくさせていただきました。彼はワシントン特派員、朝日ジャーナル編集長を経て、テレビの世界へ。戦後屈指の見事なジャーナリストだったと思います。

 

※注1「泰山木」:樹高が20mにもなるモクレン科の常緑樹で、庭木や公園樹などとして親しまれている木。初夏に白く大きな花を咲かす。 

※注2「新潟地震」:昭和39(1964)年6月16日発生。地震の規模はM7.5。日本の歴史上、最大級の石油コンビナート災害をもたらした。143基の石油タンクが延焼し、火災は12日間続いた。

※注3「20万円中元事件」:現職の塚田十一郎・新潟県知事が再選のため、県議に現金20万円の賄賂を渡した事件。

※注4「夜討ち朝駆け」:仕事中は多忙等の理由で対応してもらえない相手に、朝の出勤時や帰宅を待ち、(半ば強引に)取材する手法。

 

「世のため、人のため」政治家への転身

 

 

昭和51(1976)年、自民党では「良識派」とよばれた河野洋平議員らが、ロッキード事件など政治とカネの問題でいろいろあった自民党を離れ、新党「新自由クラブ」を立ち上げる動きがあり、私は先輩記者とともにそれをスクープしました。これが縁で翌年、河野さんに「私のスタッフになって、政治の手助けをしてほしい」と懇願されたことが政界入りのきっかけです。

幼いころからの夢である新聞記者をやめることに迷いもありましたが、その時の毎日新聞社内には自分自身納得できない雰囲気があり、目指していた新聞記者とは何かが違うと感じていた時期でした。新党運動はものすごいブームを呼び、日本の政治を揺るがしていたので、河野洋平という見事な政治家のために働くことに、魅力を感じたのも事実です。

当時、政治部デスクで後に政治評論家となった三宅久之氏に相談すると、「恒さん、行ったらいいよ。お前の唯一の欠点は、字が汚いことだけだ(笑)」と背中を押してくれました。まさか政治の世界に入るとは思ってもいなかった私に、この年もう一つ「まさか」の出来事が。一度流産して以来、子どもに恵まれなかった妻が、結婚12年目にして妊娠。これも、人生の転機を感じさせる出来事でした。

こうして河野さんの秘書となった私は、6年後の昭和58(1983)年、河野さんの親戚で元・朝日新聞の記者、田川誠一議員に「君も私と同じような経歴だ。神奈川1区から出ないか」と、出馬を進められ衆院選に立候補しました。当時、横浜市北部からは政治家は出ておらず、私は選挙に必要な「※注5 三バン」も何もない、まさに「0」からのスタート。一度目は惜敗しましたが、昭和61(1986)年、46歳の時に2回目の挑戦で初当選しました。

現在、政治と宗教の絡みが問題となっていますが、当時の私の選挙活動は、まったくの市民参加型。新党からの出馬ということもあり、同志に市会議員や県議会議員がいるわけでもなく、私の考えや行動に共感し支持を寄せてくださったのは、若者や主婦の方々が中心でした。河野さんからも「恒さん、あんたの選挙のやり方こそ、私が描いていた選挙のあり方そのものだったよ」とお褒めいただいたのが、今でも忘れられません。市民選挙の一つのパターンをつくれたのではないか、と思います。

政治家になったからには、自分の利益は捨てて「世のため、人のため」を政治信条にしました。特に、未来を担う子どもたちのための「教育」、そして自然溢れる郷土を守るための「環境」、この二つをテーマに20年にわたって政治に携わり、文部政務次官、環境政務次官、文教委員長等を歴任しました。

平成20(2008)年、福田康夫内閣の2期目とのき、首相に「長く教育に取り組み、人のために尽くす鈴木さんにぜひ受けてほしい」と要請され、文部科学大臣に就任しましたが、もともと、65歳になったら若い人に後任を譲ると決めていたので、平成21(2009)年に引退。この年、河野洋平さん、小泉純一郎さんも引退を表明し、同じ神奈川で現職議員3人がリタイアすることになりました。

(次回に続く)

 

※注5「三バン」:選挙に必要な3つの要素、「ジバン(地盤=支持組織)」「カンバン(看板=知名度)」「カバン(鞄=選挙資金)」のこと。

 

1986 年、衆議院議員選挙で初当選。

 

 

 

 

 

 

 

<プロフィール>

鈴木 恒夫(すずき つねお)

1941年2月10日生。神奈川県横浜市出身。早稲田大学第一政治経済学部卒業。1963 年、毎日新聞社入社。1977 年、衆議院議員秘書。1986 年、衆議院議員選挙で初当選。1992 年、文部政務次官。1996 年、環境政務次官。2008 年、文部科学大臣就任。2009 年、政界より引退。2010 年、社団法人「小さな親切」運動本部理事。2011 年、公益社団法人「小さな親切」運動本部理事。2014 年、公益社団法人「小さな親切」運動本部代表就任(6代目)。現在に至る。