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60周年特別インタビュー第4回:「小さな親切」をより大きく② 鈴木恒夫(公益社団法人「小さな親切」運動本部代表)

本年、「小さな親切」運動が創立60周年を迎えるにあたり、鈴木恒夫代表のインタビューを2回にわたって掲載しています。今回は、政界引退後のエピソードのほか、長年にわたる「小さな親切」運動との関わり、運動への想いなどをお聞きしました。

 

文章力は「人間力」

 

私は、未熟な自分が成長できたのは、学校や先生のおかげだと思っていますので、教育を十分に施す社会をつくり、さらに日本を発展させたいとの思いで、政治家時代は「教育」の分野に重点的に携わりました。68歳で政界を引退してからは、私を文部政務次官に推薦してくださった尊敬する政治家、森山眞弓元衆議院議員が理事長をつとめていたご縁で、白鷗大学の特任教授となりました。そのほか横浜商科大学にも招かれ、どちらの大学でも「現代政治論」を中心に教えましたが、月に1回くらい、学生にテーマを与えて手書きの「作文」を書かせていました。

作文を書くのは小学生以来だといって、戸惑う学生もいましたが、作文の良いところは、書くことによって「ものを考える力」がさらに熟していくところ。自分の手で文字を書くことで、一つひとつの言葉に自分の想いを込められます。今はパソコンやスマートフォンの時代ですので、「古い」といわれるかもしれませんが、言葉は自分の頭の中から生まれてくるものです。その言葉を紡ぐことは、「生き様の表現」といって良い。文章力をつけることは、人間力を鍛えることにつながるのです。

「小さな親切」運動でも、作文コンクールやエッセイコンテストを主催していますが、文章を書く機会づくりはとても大切で、意義のある活動だと考えています。

いまだに当時の作文は大切にとってありますが、留学生が慣れない日本語で一生懸命書いた作文は胸を打ちましたし、こちらが勉強になることもたくさんありました。教え子の中には、政治家になった学生が何人かいます。世襲議員が悪いわけではありませんが、私と同じように世襲ではない政治家も必要です。彼らも、地盤のない中がんばっています。少しは、志のある若者を育てられたのではないかと自負しています。

 

「小さな親切」運動とともに歩む

 

運動のスタートは、私が大学を卒業し、毎日新聞社に入社した昭和38(1963)年。当時は、日米安保闘争によって世の中が殺伐としていて、茅誠司東大総長が卒業告辞で卒業生に「小さな親切」の実践を呼びかけたことは、日本中に大きな反響を呼びました。

入社後すぐ新潟支局勤務となった私も、影響を受けた一人。「新潟にも『小さな親切』の芽が」と地元の動きを記事にしたのを覚えています。加えて、毎日新聞社の上田常隆社長(当時)が、茅総長の呼びかけに共感し、運動の提唱者の一人に加わったこともあり、この運動には深いご縁を感じていました。

政治家になってからは大変忙しかったのですが、「小さな親切」実行章贈呈式などの会合には可能な限り出席しましたし、横浜の少年野球の子どもたちを実行章に推薦したこともあります。昭和62(1987)年には、地元・神奈川県に運動を根付かせたいと、神奈川県本部の発足にも尽力しました。

 

社会人になってから60年もの間、一貫してこの運動に関わってきたのは、日本文化の礎を築くのに必要な運動だという強い想いがあったからです。

発足当時から行っている親切さんの表彰「『小さな親切』実行章」を受章されたのは、累計でなんと約610万人。日本には、たくさんの親切な方がいるという証です。さらに、今では珍しくありませんが、大規模な清掃活動の先駆けとなった「日本列島クリーン大作戦」は、運動の大きな財産。近年、スポーツの国際大会などで日本人が会場のごみ拾いをする姿は世界中を驚かせていますが、人が落としたごみを拾う、これはまさに「日本の美風」そのものといえるのではないでしょうか。

私自身もずいぶん長いこと、「一人クリーン大作戦」を実践していて、毎朝6時半ごろから、散歩のついでに道路や公園のごみを拾っています。すると、出会った近所の方から「ご苦労様です」「いつもすみません」と声を掛けられるのですが、「これは趣味ですから」と返しています(笑)。もう習慣になっているので、やらないと一日が始まらない感じです。

 

政治家時代「小さな親切」実行章贈呈式にて(昭和62年)

 

私が代表に就任したときには、先人達が培ってきた「日本の美風」を蘇らせ、時代に合わせた活動に新しく生まれ変わらせたいとの思いを込め、「日本の美風の蘇生と新生」をスローガンに掲げました。

現代はデジタル化が進み、人とのつながりが希薄になっています。コロナ禍もあって会話をする機会が減り、心の痛み、感動を共有する機会が減ったことがとても心配です。対面でなければ、人の心を尊重することができず、「※忘己利他(もうこりた)」の精神は育ちません。

コロナとの戦いの中で、人との交流の大切さ、不安や恐れを克服するため、一人ひとりが思いやりを持つことの大切さに気づいた方も多いのではないでしょうか。今だからこそ、「小さな親切」運動をより多くの方に知ってもらい、全国に広げていきたい、60周年はその機会と考えています。どうか皆様もご協力ください。

 

※忘己利他:天台宗の開祖・最澄の言葉で「自分のことを忘れ、他人のために生きる」という意味。

 


宮沢賢治から学ぶ「日本の美風」

 

一番上の兄が宮沢賢治の心酔者だったこともありますが、私も同じ農家出身者として、宮沢賢治の詩『雨ニモマケズ』に共感し、心の支えにしてきました。原文のコピーを手帳に挟んで、いつも持ち歩いていたほどです。

次代を担う子どもたちには、この先いろいろなものを身につけながら、しっかりと自分を見つめ、一歩でも前へ歩いて行ってほしいと思います。『雨ニモマケズ』の一言一言は、まさに「日本の美風」。子どもたちにとってとてもいい教えになると思いますので、私からのメッセージの代わりにこの詩を贈ります。

 

「雨にも負けず」 

 雨にも負けず 風にも負けず 

雪にも夏の暑さにも負けず 丈夫な体を持ち 

欲はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている 

1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを自分を勘定に入れず よく見聞きし 分かり そして忘れず

野原の林の下のかげの 小さなかやぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば 行って看病してやり

西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもよいと言い

北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い

日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き

皆にデクノボーと呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず

そういうものに 私はなりたい


<プロフィール>

鈴木 恒夫(すずき つねお)

1941年2月10日生。神奈川県横浜市出身。早稲田大学第一政治経済学部卒業。1963 年、毎日新聞社入社。1977 年、衆議院議員秘書。1986 年、衆議院議員選挙で初当選。1992 年、文部政務次官。1996 年、環境政務次官。2008 年、文部科学大臣就任。2009 年、政界より引退。2010 年、社団法人「小さな親切」運動本部理事。2011 年、公益社団法人「小さな親切」運動本部理事。2014 年、公益社団法人「小さな親切」運動本部代表就任(6代目)。現在に至る。