おとなの作文

毎年、多くの小中学生にご応募いただいている「小さな親切」作文コンクール。最近では「私も小さいとき書きました」と言ってくださる親世代の方もちらほら。

そこで、大人になったみなさんの作文も大募集いたします!大人になった今だからこそ感じる「小さな親切」、子どものころのエピソードなど、「小さな親切」にまつわるテーマならなんでもOK!

子どものころの気持ちを思い出すため、パソコンやワープロはあえてNG。鉛筆を握りしめ、久しぶりに原稿用紙に向かって作文を書いてみませんか?

応募要項

テーマ
「小さな親切」-私のした、うけた、みた、できなかった親切-
応募資格
高校生以上
応募字数
400字詰め原稿用紙3枚(1,200字)以内
※ 題名、氏名、下記自己PRは含みません
応募方法
原稿用紙に題名、氏名、ひとこと自己PR(現在自由人です、子育てママです、ボランティア活動中です…など)、年齢、住所、電話番号を明記の上、下記にご送付ください(手書きのみ)
募集期間
随時
応募された作品の中から、優秀な作品を選んでHPなどでご紹介します。
作品が掲載された方には「小さな親切」運動オリジナルグッズをプレゼント!
送り先
公益社団法人「小さな親切」運動本部 「おとなの作文」係
〒101-0061 東京都千代田区神田三崎町2-20-4

※ 原稿用紙の大きさは問いません。原稿用紙はこちらからもダウンロードできます。

※ 作品は一人一作品とし、未発表のものに限ります。著作権は公益社団法人「小さな親切」運動本部に属し、応募作品は返却いたしません。

※ 応募作品はHPや「小さな親切」誌に掲載する際、補作を行うことがあります。

おとなの作文 投稿作品

「新聞売りの少年」 大阪府  安藤 知明

ひとこと:年金生活で、禁酒禁煙です

 東アフリカ・タンザニアに暮らしたのは、今から50年ほど前のこと。まだ独立して日が経っていない若い国であった。
 「英国が出ていって、残ったのはこの惨めな現状だよ。」
 同僚のサヌアリは、..... 続きを読む

 東アフリカ・タンザニアに暮らしたのは、今から50年ほど前のこと。まだ独立して日が経っていない若い国であった。
 「英国が出ていって、残ったのはこの惨めな現状だよ。」
 同僚のサヌアリは、一緒に飲むと決まって愚痴った。
 「正真正銘、自分たちの国になったんだから、これからは自分たちで豊かになるように努力したらいいんだよ。」
 サヌアリはウン、ウンと頷きはするが、前途は明るくも多難であった。
 日中の暑さといったらない。灼熱の太陽が容赦なく照りつける。それで、仕事はまだ涼しい朝7時から始まって、午後2時に終わる。それから家に帰って、昼食を取ることなく昼寝をする。そうでもしなければ、ここでは体が持たない。
 赴任当初は、この昼寝の習慣にはなかなか馴染めなかった。レポートの作成やら読書やらをしていたが、2、3ヶ月もすると、体が昼寝を要求するようになった。「郷に入れば、郷に従え」の諺どおり、時が解決してくれたのであった。
 陽は年中、朝7時に昇り、夕方7時には沈む。5時半に起床し、しっかりと食べて家を出るのは6時15分頃。仕事場までは30分ほどのドライブ。途中、街に入る手前に橋があり、その袂にいつも新聞売りの少年が立っている。三、四人いたが、決まった一人だけから買っていた。
 テレビ網はまだなく、ラジオも電力不足のため一日数時間しか放送していなかった。勢い、ニュースは新聞が頼りだった。公用語のスワヒリ語と英語の新聞を買う。
 「スワヒリ語、わかりますか?」
 初めて買った日に、少年から訊かれた。
 「大丈夫さ。日本でみっちり3ヶ月間勉強したよ。」
 「発音、お上手です。」
 「ありがとう。」
 日曜日を除いて毎朝、顔を合わせているうちに、いとおしくもなってきた。
 月2、3度、地方への出張があった。電気も水道も新聞もない。ランプや川から汲んできた水で不便を凌いでも、新聞がないことには世間とは全く遮断されてしまう。
 「地方に行くと、新聞がなくて困るよ。」
 ある日、少年にふと漏らした。
 「それなら、今度から出張中の新聞をキープしておきます。」
 それ以来、「明日から出張だよ」と言っておくと、少年はその期間の新聞を取っておいてくれるようになった。おかげで、「そんなことあった?」なんて、仲間との会話で疎外感を持つこともなくなった。
 任期中、あの少年の好意にずっと甘えておきながら、感謝らしい感謝をきちんと伝えきれなかったことが、今振り返ってみて心苦しくさえ思える。 閉じる

「高尾山 日帰り」 栃木県  柳 徳子

ひとこと:熟年の旅でこざんす

 二年間の大学生活を東京で、50数年前送りました。
 その時の遠足が高尾山。なんにもない東京にもこんな静かな場所が、山があったのかと、人もまばらな高尾山に登りました。
 若かったせいか、..... 続きを読む

 二年間の大学生活を東京で、50数年前送りました。
 その時の遠足が高尾山。なんにもない東京にもこんな静かな場所が、山があったのかと、人もまばらな高尾山に登りました。
 若かったせいか、疲れた記憶もありません。
 結婚52年目、夫と高尾山に出かけました。
 「ありゃりゃー、こりゃひどい。」
 なんだと思ったら、ケーブルカーもゴンドラも最低40分待ち。120人乗れるそうだが、下手すると、乗りきれずに80分待ちになるのです。
 「なんてこった、これが山の銀座というのか。」
 ため息をついて、夫に相談。
 「少し登る?」
 「若くはない。転んで骨折したこともあるだろう。」
 ということで、ケーブルカーにしました。
 並んで振り向くと、車椅子での親子の会話が聞こえました。
 「お母さん、40分待ちだとトイレ行きたいんだけど、お母さんは?」
 「大丈夫、行ってきな。」
 それでも置いていくのが心配そうな様子。
 「私でよかったら見てますよ。」
 娘さんはほっとしたように、
 「ありがとうございます。お願いします。」
 と駆けていきました。
 戻ってからも30分、私の隣の人が声をかけました。
 「ベンチがあるから休んでて、30分近くなったらここへ戻ればいいよ。」
 娘さんは、恐縮しながらも言葉かけに従いました。まもなく改札、もどってきました。
 誰も「割りこみ」なんていう人はいなくて、空間を作ってくれていました。
 混み合う中でやわらかい空気が流れていました。
 どこへ乗ったかわかりませんでしたが、下車する時、乗務員さんが腰をかがめて手伝っている姿が見えて、ほっとしました。
 ケーブルカーを降りると休憩所があり、しゃれた椅子とテーブルがあり、軽食があり、見渡せば木々の中、時折もみじが舞い落ちるのです。
 もう少し登ると、鐘つき堂や身を清めて祈る場所等の広庭がありました。
 民話に、嫁いだ娘の早起きを願って、鐘をつく母親。やがて、行き倒れしていたのが母親だったという物語を思い出しました。
 下山のケーブルカーに車椅子の親子と乗り合わせました。
 こんどは父親と息子。息子が膝掛けをそっとかけていました。
 父親は満足そうにうなずいて、目を閉じていました。
 「俺が親父を守るんだ」といった感じでした。
 両親を旅行にも誘わないで、終わった人生をふりかえり、車椅子の親子に会えて感激でした。懺悔の思いでした。 閉じる

「言葉がけの効果」 埼玉県  篠原 和人

ひとこと:仕事から離れ、2年半。自由人です。

 「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」
 これは家庭内の話ではない。某駅の立ち食いそば屋さんで働く私の知人の話である。
 彼女が、1昨年..... 続きを読む

 「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」
 これは家庭内の話ではない。某駅の立ち食いそば屋さんで働く私の知人の話である。
 彼女が、1昨年勤める際に教えられた店内でのあいさつ―「いらっしゃいませ」「またお越しください」に加え、いつの日やら先の言葉を使いだしたそうだ。要因はこれだけではないだろうが、朝に夕にこの言葉を繰り返しているうちに、サラリーマンや学生さんの中にわずかずつ常連客の方々が増えてきたとのことである。
 先日、きっかけについて、彼女に直接伺ってみた。
 「早朝から、会社や学校に向かうサラリーマンの方や学生さんのまだ眠そうな後姿や、一日を終え疲れを抱えて立ち寄る表情を見れば、ごく自然に出てきてしまいます。」
 さりげなくこう答えてくれた。お客さんは、きっとあのひと言で心を癒され、家庭的な雰囲気を感じ取ったのかもしれない。彼女のにこやかな顔つきとともに、お客さんを思いやる気持ちが伝わっているのに相違ない。
 より身近なところで、こんなこともあった。
 私の義父は満90歳になった。高齢のせいもあって、定期的に二ヶ所の病院へ通院している。各々の病院とも院長先生が担当だが、患者の対応はかなり異なる。義父が腸の働きをはじめ、体力が衰えてきて困っている旨などの話をしだすと、A氏は、「年を取って元気になる人はいないから」とあっさり返す。
 B氏は、その際、必ず患者の前に自分の椅子を向け直し、じっくり話を聞こうとする。A氏も決して不親切ではないのだろうが、言葉がけが十分とは言えない。
 「話を聞いていただけるだけでも、気分がよくなるのです。」B氏に伝えた義父の言葉が、今なお耳に残っている。
 親切とは、相手の気持ちをくみ、その人のために何かを為す、ことであるが、「言うは易く 行うは難し」は確かである。しかしながら、力まず、飾らず、わずかな思いやる気持ちを持って、自然に振る舞おうとするならば、さほど難しい行為ではなさそうだ。
 私は思いやりのひと言―相手の心に伝わる言葉がけは、多くの人にとって、あまり勇気も要することなく取り組める気がしている。
 退職後、参加しはじめ2年目を迎えた朝のラジオ体操の話である。大半は高齢の方々が多いが、常に200名近い。たとえ悪天候であっても皆参加している。いったい何故だろうか?ラジオ体操を頑張りつつも、参加者は各々が、その前後の出会いの時間を大切にし、楽しんでいるのだ。様々な言葉がけが行き交う。
 「おはよう。元気にしてる?」「昨日、カラオケ行ってきたの。今度行こうよ。」「前回、休んだね。心配したよ。」等々。
 “言葉がけは、親切への入口”かもしれない。いつか、相手の心に響く言葉がけが、互いにさらに頻繁に、そして隅々に広がっていくことを願うとともに、自らも範を示したい。 閉じる

「火の用心」 徳島県  井川 劦

 今から60年も前の出来事です。
 私は、白地小学校の高学年に在学していました。冬休みに毎日夜8時に集まって、地域の低学年の生徒8名と一緒に暗い夜道を、
 「火の用心、..... 続きを読む

 今から60年も前の出来事です。
 私は、白地小学校の高学年に在学していました。冬休みに毎日夜8時に集まって、地域の低学年の生徒8名と一緒に暗い夜道を、
 「火の用心、マッチ1本、火事のもと。」
 カーン、カーンと拍子木を打って、部落内を歩いて回っていました。
 時々白い雪がちらちらと降っていたある日、うどん屋のご主人の田村さんが私たちを呼び止めて、「みんな入って来い!」と言われました。
 全員のれんをくぐってお店の中に入り、椅子に腰をかけました。
 すぐに田村さんは、奥さんと一緒に作った湯気が出ているうどんをテーブルに置いて、
 「食べなさい。」
 と言って、温かいうどんをおごってくれました。
 全員(おいしかったなあ)というような顔をしていました。
 帰り際、田村さんに、「ありがとうございました!」と声をそろえて、大きな声で御礼を言ったのを、今も鮮明に覚えています。
 あの田村さんや奥さんのやさしい顔やおいしかったうどんの味は、今も忘れてはいません。子どもだった私たちは、田村さんの言われた
 通りに、素直に行動したまでのことなのですが、よく考えてみると、田村さんの温かい「日本人的心」が働いていることがよく分かります。
 人生は長い道のりです。子どもの頃、若い頃は、気付かないことがたくさんあります。しかし人間は、何歳になっても他人から受けた愛情のある「心」だけは忘れないものです。
 「それが人間なんだよ。」
 と教えられると、私の人生をこれからどう生きていけばいいのかを考えさせられる今日この頃です。 閉じる

「ありがとうの言葉と私」 東京都  小林 和明

ひとこと:「ありがとう」が、職場における信頼、人と人とを結びつける大きな力になることを痛感した事件をまとめてみました

 新店舗の建設にあたり、業者選定の決定方法を今回から変更することになりました。諸事情からプロポーザル要綱の期日より大幅に前倒しになり、ある日、その第1号である業者に連絡をし、本店まで来てもらいました。
 「顧問、業者の専務さん.....続きを読む

 新店舗の建設にあたり、業者選定の決定方法を今回から変更することになりました。諸事情からプロポーザル要綱の期日より大幅に前倒しになり、ある日、その第1号である業者に連絡をし、本店まで来てもらいました。
 「顧問、業者の専務さんと部長さんがお見えになりました。」
 と連絡があり、会議室で私は業者と、私どもの専務と部長を待っておりました。全員が揃うまでは結果は申し上げられませんので、敢えて厳しい表情を作り、席に座っていましたので、いつになくピーンと張りつめた厳しい空気になっていました。
 急遽の呼び出しだったため、業者も何か失敗でもあったかと緊張気味でした。
 女性職員がお茶を出してくれましたが、会議室にはいつになく張りつめた空気が漂っていました。
 そのうち、専務と部長が現れて、「今回は御社に新店舗建設をお願いすることに決定致しました。」
 と報告をすると、
 「本当ですか、本当にありがとうございます。これから細部の打ち合わせをして仕事に当たらせていただきます。」
 業者は突然の決定報告に唖然とした表情で答えました。
 その日は、午後に職員2人と一緒に出かけた帰りに、日頃の慰労を兼ね軽く飲んで帰ることになりました。
 「お疲れさま、ご苦労さまでした。」
 少し酔いが回った頃に、若い職員が、
 「顧問、今朝は管財部の部屋は大変だったんですから。」
 と話し出しました。
 「お茶を出しに行ったら、業者さんも顧問も一言もしゃべらず、緊張した表情で黙ったまま座っていたので、何かトラブルでもあった?いつも顧問は、お茶を出したときに、必ず『ありがとう』と言ってくれるのに、今日はなかったんです。」
 と、大騒ぎになっていたとのことでした。
 この言葉に大変驚かされました。
 朝は演技をすることで頭の中が一杯になっていて、いつも心にしている「ありがとう」の言葉を忘れてしまっていたのです。
 いつも必ず「ありがとう」を言う人間として認識をしてくれていたこと、そしてその言葉がないことで、それを言えないぐらい重大な事件が起こっているのではないかと思ってもらえるほど、「ありがとう」という言葉と私を意識してくれたことが嬉しかったのです。女性職員や管財部の周りの職員にも「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えたいです。
 還暦を数年過ぎた今、「ありがとう」の言葉が教えてくれる重要性、人と人をさらに大きく結び付ける大切な言葉であると教えてくれた1日でした。これは、「小さな親切」運動が教えてくれたのかもしれません。
 これからも何かの行為に対し必ず感謝をし、いつもこの「ありがとう」の言葉を大切に生きて行きたいと思います。 閉じる

「私の生徒たちの実践した運動」 大阪府  吉田 登

ひとこと:大阪で「小さな親切」運動を実践していました

 私が郷里の中学校で教務主任(教頭を助けて、学校運営の企画立案一般の仕事をする役職)をしていた頃、大阪市内で「小さな親切」運動大阪本部という会があることを知った。もし私の気に入るような会なら、入会して少しで..... 続きを読む

 私が郷里の中学校で教務主任(教頭を助けて、学校運営の企画立案一般の仕事をする役職)をしていた頃、大阪市内で「小さな親切」運動大阪本部という会があることを知った。もし私の気に入るような会なら、入会して少しでもお手伝いしようと思った。発足して1~2年くらい経過したばかりの会のようだったが、何か他人に親切にする会ならよかろうと、クラブ活動などとは別種のものとして会員募集をしたら、希望者がたくさん来過ぎたので、会のお世話する人を数名選んで、全校生を対象とした。
 だんだんと内容がわかってくると、会員制で会費がいるとのことが、善行を実践するのに子どもでも金がいるのはおかしいから、無料の準会員でと、我を通して了承を得た。
 善行を知ったり、善行のあった人は私にそのことを報告してもらって、内容の事実を確認できたら、「○○君はこのような親切をした」と本部に報告し、本部が認めたら、小さい「親切実行章」のバッジが送られてくる。朝礼時にその行いを紹介し、バッジを贈る。
 倉庫から古い黒板を出して実行者の紹介をしたら、次々と実行した親切の届けが多くなってきた。今までのいたずらなどのネタ探しが、親切のネタ探しに代わり、今までの校内の落ち着かない雰囲気が収まり、なんとなく落ち着いた学校になってきたと、校長も喜んでくれた。
 私が担当していた間の一番大きな親切は、単車の免許証入りの財布(10万円くらい入っていた)の届けだったと思う。
 大阪市内から、田舎の私たちの学校に及びかけていた校内暴力が、次第に鎮静化したのは事実だった。こんなことで、私は大阪本部の実行委員に加えられてしまった。
 学校には外部の人を入れることはあまりなかったが、大阪本部の方々15名くらいを校内研修会に招待して、私が「小さな親切」運動を取り入れた授業を参観してもらった。校内研修会だから、校長教頭はじめ他の先生方も参観されたが、好評を得て、校内での私たちの運動もしやすくなってうれしかった。
 何年かして、私が校長になり他の学校に転勤する時が来た。私の仕事を引き継いでくれる先生があって、安心して転勤することができた。
 私は転勤後、校長として勉強する教科ごとの研修会は、前任校での活動を知っている校長のすすめもあり、一般的に人気の薄い道徳研修部会に入った。この部会での活動は後記する。
 小さな親切運動での大きな活動に「使用済み切手の収集」があった。日本の切手は作る人の印刷技術が優れていて、世界の切手界で高く評価されていて、主に発展途上国の子どもたちの予防注射費用に役立っている由である。転任校でもこの運動をすすめてもらった。郵便のない家はないし、郵便の少ない家庭の子どもは近くの商売の家に切手を集めてくださるように頼んでもらい、みんなで力を合わせて収集していた。ある冬の寒い日の朝、出勤のため校門をくぐろうとしたら、「小さな親切クラブ」の役員数名が大きな立看板を立ててしゃべっている。看板には、「使用済み切手が5万枚を突破しました。本当にありがとう」との文字を見て、私まで目頭が熱くなった。使用済み切手がこんな形で役立つとは知らない人も多い。
 前記の通り、新しく赴任した中学校の校長として、「道徳」研修部会長をお受けした。道徳といっても深いことはわからないが、前任校での活動を思い出し、小さい活動をいろいろ集めて、年間活動を他の先生方の意見も入れて作り上げることができたが、小学校の道徳研究部会が、どうにも年間活動が作り上げられないと、相談を受けた。各教科は授業として毎日毎日授業を続けているので、年間計画は作りやすいが、学校の荒廃という洗礼を受けているので、生徒の心の持ち方を変えるベく、道徳を正課として発足するための手だてをと、泥縄の感じもあった。そこで小中の担当者が相寄り、今年一年間を東大阪市立小中学校道徳研究会と他市域は他教科に見られぬ小中学校研修会を共同にして、私が会長を務めた。 閉じる